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染付

元代に西方から伝えられたコバルト顔料を用いて青色の模様を描くようになった陶磁器。次の明代に景徳鎮で盛んになり、中国の代表的輸出品となった。

染付  中国の陶磁器の一種。白磁に下絵を藍色(濃い青色)で描き、透明の釉薬をかけて焼き上げたもの。日本で「染付」(または呉須)と云うが、中国では青花という。宋末に始まったともされているが、発達したのは元代の中頃であり、そのころからイスラーム商人などを介して西アジアやヨーロッパにももたらされた。
 中国では宋に陶磁器の技術が進んで、青磁・白磁が造られるようになっていたが、それに模様を描くことは行われていなかった。それは磁器に墨で上絵を書いても高温で焼くうちに流れてしまい定着しないからであった。西アジアでは独自の技法で上絵を書くことが行われていたが、モンゴル帝国の支配が西アジアに及び、特にイル=ハン国が支配したイランやイラク周辺でのコバルト顔料を使った技法が、元代の中国にも伝えられることによって、可能になった。
 元代の後半に景徳鎮で作られるようになった、鮮やかな青色(藍色)で中国伝統の龍や鯉などの祥瑞模様を描いた染付が大量に作られるようになり、それらの陶磁器は中国の主要な輸出品としてムスリム商人などの手によって西方に運ばれた。次の明代においても景徳鎮を中心とした染付の生産は増大し、さらに赤や緑で彩色する技法である赤絵(中国では五彩という)が加わり、隆盛期を迎えた。
 染付や赤絵はいわゆる「陶磁の道」を経てインド洋を渡り、インドやアラビア半島、さらにアフリカ東岸にもたらされた。現在でもインド洋沿岸の港湾都市には、青磁・白磁と並んで染付・赤絵が大量に見つかっている。特にオスマン帝国の都イスタンブルに造られたスルタンの宮殿であるトプカプ宮殿には、素晴らしい大型の染付のコレクションが保管されている。
 中国製の染付だけではなく、染付の陶磁器技術もオスマン帝国を経てヨーロッパに伝えられた。現在、ヨーロッパの陶磁器の産地であるデルフトなどは染付の技術をヨーロッパで発展させたものである。また、日本には豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に日本の武将が捕虜として連行した朝鮮人陶工によって染付・赤絵の技法が伝えられ、日本各地に窯が開かれるようになった。
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第8章1節 東アジア・東南アジア世界の動向