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牡丹亭還魂記

16世紀、中国の明代の長編戯曲。儒教の倫理にとらわれない女性の恋愛を主題とした、伝奇的な作品。作者湯顕祖は、科挙官僚となったが王陽明・李卓吾の影響を受け、人間の自由意志、自由な行動を重んじて、詩文や戯曲を創作した。

 『牡丹亭還魂記』(略して牡丹亭とも言われる)は、貧乏書生の柳夢梅と深窓の女性杜麗娘とれいじょうの奇想天外な恋の顛末を描いた大長編戯曲(全五十五幕)である。舞台は中国北方を女真族の金が支配し、漢民族の亡命王朝南宋が江南を支配した時期に設定されている。広州に住む柳青年はある夜、花園の梅の下に立つ美少女の夢を見た。彼女は、二人は結婚する運命にあると告げる。同じ頃、南安(江西省)の太守の一人娘杜麗娘の夢にも柳の枝を持つ柳夢梅が現れ、二人は裏庭の花園の太湖石の蔭で結ばれる。夢から覚めた杜麗娘は重症の恋煩いにかかり、母には自画像を残し亡骸の花園の梅の下に葬ってほしいと言い残して死んでしまう。父親は金軍の南下に備えて揚州を守る任務を与えられ、出発にあたって裏庭の花園に梅花庵観を建て娘の霊をまつる。一方の柳夢梅は広州を離れて旅に出、南安まで来て病にかかり行き倒れになったところを、梅花庵観の管理人に助けられる。
 梅花庵観に身を寄せた柳夢梅は裏庭を散歩するうちに太湖石の下に埋められていた杜麗娘の自画像を発見、その美しさに心を奪われ、日夜、絵の中の彼女に向かって「お嬢さん、私はあなたが好きでたまりません」とかきくどいた。すると不思議なことに杜麗娘が姿を現す・・・。この物語は、杜麗娘が再生したあと、最終的な大団円までさらに紆余曲折を重ねる。
(引用)作者湯顕祖は、ありとあらゆる制約を突き崩し、障害を乗り越えて、みずからの恋を貫くヒロイン杜麗娘の姿を、見てのとおり、夢と現実を巧みに交錯させる形で、鮮烈に描きあげた。異性愛を徹底的に追求し称揚するこの劇のモチーフには、男女関係を厳しく規制する儒教イデオロギーに染め上げられた、伝統中国の社会通念を根底からくつがえす、まこに尖鋭なものが秘められている。<井波律子『中国文章家列伝』2000 岩波新書 p.194-198>

作者 「中国のシェイクスピア」湯顕祖

 作者の湯顕祖とうけんそ(1564-1616)は撫州臨川県の出身、1570年、21歳で科挙の郷試(地方試験)に合格した。しかし会試(首都北京での中央試験)にはなかなか合格できなかった。1577年の落第は、明の万暦帝の下で絶大な権力を振るっていた張居正が、次男を合格させようと競争相手だった湯顕祖を宴席に招いて買収しようとしたが、湯顕祖がそれを断ったためであった。次の会試でも張居正は三男を合格させるため密かに自分で試験問題を作って合格させ、湯顕祖を落第させた。1581年、張居正が失脚した後、1583年に5度目の挑戦でようやく合格、34歳で進士となった。
 湯顕祖が張居正に反発したのにはもう一つ理由があった。明末のこの時期、王陽明の思想はさらに先鋭化し、その影響を受けたグループ、王学左派は各地で活動し、士大夫の立身出世のための学問になってしまった従来の儒イデオロギーを攻撃し、人間的な欲望の中にこそ真に道徳的なものが生み出されると説いていた。張居正はこの動きを秩序体系をくつがえす危険が動きと警戒し、その有力メンバーを追放したり処刑したりしていた。湯顕祖は張居正の王学左派弾圧に反発していたのだった。湯顕祖が傾倒していた王学左派のリーダーの一人李卓吾は、儒教の伝統的価値観を否定し、人間にとって大切なのは既成権威に汚されない「童心」だと主張していた。彼は文学にいても従来軽視されていた白話(口語)小説の『水滸伝』と元曲『西廂記』を絶賛していた。この思想に触発された湯顕祖は、『牡丹亭還魂記』の杜麗娘のような「童心」にあふれ、想うがままに恋の欲望を貫徹するヒロイン像を造形することに成功した。
 湯顕祖は1584年に南京に赴任、官吏としては平凡な生活であったが、7年間の南京在任中に詩文や戯曲の創作に打ち込んだ。しかし、当時の詩文の主流である古文辞派――李夢陽ら「前七士」と王世貞ら「後七士」が主張する「文は必ず秦漢、詩は必ず盛唐」という特定の時代の古典を手本としなければならないという主張――を鋭く批判し自由な発想・自由な表現で捜索に当たった。1591年には当時の明朝中央の実力者らを名指して批判する上表文を提出したことで、僻地の雷州半島に移された後、許されて浙江省遂昌県の知事に転任、しかし49歳で辞職して故郷臨川に戻り、『牡丹亭還魂記』などの長編戯曲を書き続け、1616年、67歳で死去した。彼が敬愛してやまなかった李卓吾は14年前に逮捕され、獄中で死んでいた。<井波律子『上掲書』p.198-210> → 明の文化
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井波律子
『中国文章家列伝』
2000 岩波新書