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李自成/李自成の乱


李自成

明末の李自成が起こした農民反乱。北京を占領し、明王朝を滅ぼしたが、清に鎮圧された。

 李自成はの末期に起こった農民反乱軍の指導者。1631年、農民反乱が起きると、反乱軍に加わり、各地を転戦した。1644年には西安に入り、国号を大順として王を称した。さらに北京に進軍すると、明は清に対する防衛のため軍隊を山海関に置いていたために守りきることができず、最後の皇帝毅宗(崇禎帝)は自殺、滅亡した。しかし李自成の軍は統制がとれず、各地の地主層も離反したため政権を維持できなかった。山海関を守っていた明の部将呉三桂は清に降り、その先導となって北京の李自成軍を攻撃、李自成は陝西の地に逃れ乱は終結した。この反乱によって明は滅亡し、の中国支配のきっかけとなった。 → 明の滅亡

Episode リストラされて反乱軍に加わった李自成

 李自成はかなり裕福な里長戸に生まれたが、逃亡した里内の農民の賦役を連帯責任で負担させられて没落し、やむなく駅率となった。ところが財政整理(リストラ)によって駅伝が廃止されて失業し、ついで軍隊に入って謀反に加わり、反乱軍の首謀者となった。1640年頃には「身分のいかんにかかわらず、土地を均しく分配し、三年間の税を免除する」「商取引は公正にする」などを掲げて農民や商人の支持を得て大勢力となり、ついに王を称し、1644年には北京には行って明を滅ぼした。このままいけば明の建国者朱元璋と同じく農民から皇帝となるかと思われたが、人心をつかむことができず、清という新興勢力を後ろ盾にした明の遺臣呉三桂の軍によってわずか40日で北京を追われ、自殺して果てた。<愛宕松男・寺田隆信『モンゴルと大明帝国』講談社学術文庫 p.475> 
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7章1節 カ.東アジアの状況