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山海関

万里の長城の東端の関門。中国本土と東北地方(満州)の出入り口となった。

 明代に修築された万里の長城の最東端に設けられた関で、山に拠り海に面するところであることから山海関(さんかいかん)と名付けられた。北京を守る重要な関門とされ、東北方面の女真の勢力が建てた後金(アイシン)(後の清)の侵攻から中国本土を守る前線となった。ヌルハチは遼東を平定したが山海関を越えることはできずに終わり、その次のホンタイジは、何度か北方から迂回して北京に侵攻したが、山海関を抜くことはできなかった。

明と清の攻防

 明の武将呉三桂は山海関の守備にあたり、よく戦っていたが、1644年に李自成の乱が起こり、反乱軍が北京を占領して明が倒れると、清に協力してその先鋒となり、山海関を越える清軍を誘導して北京まで導き、清の中国制圧に大きな功績を立てた。

関東軍

 清代になると、この地より東のいわゆる満州地方が、山海関の東に当たることから「関東」と言われるようになった。行政上は奉天省・吉林省・黒竜江省の三省がおかれ、東三省、または関東州とも言われた。後に遼東半島に進出した日本軍が、その権益を守る派遣部隊を「関東軍」と称したのはそのためである。

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