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メアリ1世

16世紀中頃、イギリス、チューダー朝の女王。母がスペイン王女であったのでカトリックへの復帰を強行、新教徒を迫害した。

 エドワード6世の次のテューダー王朝の女王(在位1553~58年)。エドワードがわずか16歳で死去したとき、ヘンリ8世の遺言で国王となった。イギリス史上最初の女王である。彼女は母がスペインの王女キャサリンであり、熱心なカトリックの信者であったため、エドワード6世の治世には厳しい迫害を受けていた。はからずも女王となったメアリはカトリック復帰策を打ち出した。ヘンリ8世、エドワード6世のもとで修道院財産の分与を受けた富裕な市民は、その返還を求められるのではないかと恐怖した。さらに38歳のメアリはスペインとの関係を回復するため、27歳のスペインの皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)と結婚(1554年)し、一方でローマ教皇との関係も修復しようとした。
 1557年には、前世紀末以来続くイタリア戦争でフランスと対立していたスペイン・フェリペ2世の要請でフランスに出兵したが、イギリス軍はギーズ公の率いるフランス軍との戦いに敗れ、翌58年、カレーを失った。これで百年戦争以来フランス内に残っていたイギリスの領土はすべて失われた。1558年メアリは病死し、次のエリザベス1世が国教会に復帰したため、カトリック反動は終わった。

Episode ブラディ・メアリ

 メアリは短期間にカトリック復帰策を強行した。その一環として、それまで教会のプロテスタント化を進めてきた聖職者300人を捕らえて焚刑にするということまでやった。修道院の解散などの宗教改革で利益を得ていた地主層や、カトリック教会の横暴を恨んでいた多くの市民は彼女を「血のメアリ」と呼んで憎悪した。血なまぐさいイメージがつきまとっている彼女は今でも人気がない。トマトジュースを使ったカクテルに〝ブラディ・メアリ〟という名前が付いている。

スペイン皇太子フェリペとの結婚

 イギリス女王メアリ1世は1554年、スペインの皇太子フェリペ(英語読みでフィリップ。後のフェリペ2世)と結婚した。当時の王室同士の結婚はなぜ、どのように成立したのか。またどのような結末を迎えたのか。イギリスとスペインにとって、単なるゴシップを越えた、歴史的な意味をもっているので、アンドレ=モロワの説明を聞いてみよう。
 カトリック信仰に篤いメアリは38歳で処女だった。彼女にフィリップとの結婚話を持ってきたのは神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の意を受けたスペイン大使ルナールだった。ルナールは極秘の内にメアリに接触し、フィリップの肖像をみせた。彼女はフィリップの美貌にのぼせ上がり、またスペインの王女となることで自分のカトリック信仰が満たされることになると考え、結婚を誓約した。それを知った宮廷の国教会派貴族たちはスペインで行われている異端審問がイギリスでも行われることを恐れてあわてた。見越したスペイン大使は宮廷顧問官に金銀を贈り、結婚を承諾させた。それでも条件として、フィリップはイギリスの国法を尊重すること、メアリの死後は王位継承の権利はないこと、もし男子が生まれれば、その男子はイギリスとブルゴーニュとネーデルラントの王位を継ぐこと、さらに当時スペインのフランスとの戦争にイギリスを巻き込まないことをフィリップに認めさせ、女王との結婚を認めた。フィリップはイギリスがローマ教皇との関係を復活させることだけを条件とした。
 こうしてメアリとフィリップの結婚は実現したが、イギリス国民は即座に不満の意を表し、二三の州が反乱を起こしたが、メアリは「信仰と愛に支えられて、一向にひるむことなく」反乱を鎮圧、微笑を浮かべながら叛徒を処刑した。
 そこに乗り込んできたスペイン王子の行列には、アメリカの金鉱から掘りだされたおびただしい金の積荷が続き、ロンドンの街を列をなして運ばれた金はロンドン塔に貯蔵された。

Episode 女王の不幸な結婚

(引用)女王は、妊娠したと信じた。分娩の時が来た時、そしてもう告知の鐘が鳴り始めたとき、侍医たちは、身重と思えたのが実は神経のせいだったことを確認した。これはメアリーにとっては痛ましい幻想であった。彼女の精神状態に不安を与えるようになった。フィリップはスペインへ向けて出発した。その時彼はじきに帰るからと言い置いて行った。が、彼女は、この分娩騒ぎと、権力を彼にも頒つのを拒否した議会の態度とで、彼が極度に不機嫌になっているのを知っていた。処女の時代には其の勇敢さで大の男たちを驚かせたこの女王も、恋をするようになってからというものは、めっきり気力が弱って来たのが他目にもわかった。新教徒は彼女に渾名を付けてあの『流血好きのメアリー』と呼んだが、新教徒に対する彼女の迫害の残忍さも、確かに一部分は狂気に近い精神錯乱から説明され得る。・・・<アンドレ=モロワ/水野成夫・小林正訳『英国史』上 1937 新潮文庫 p.324>

新教徒への弾圧

 フィリップでさえ、異教徒を焚殺するのはスペインやネーデルラントでは結構だが、イギリスでは慎重にするため忍耐したほうがいい、と忠告していたが、メアリは忍耐などしなかった。1555年1月、異端取締法を復活して査問会の審議を開始し、2月には妻帯していた司祭がスミスフィールドではじめて焚殺された。
(引用)およそ三百人の新教徒の殉教者が、焔の中に死んだ。この処刑は全く目をそむけしむるものであった。傍観者たちは、受刑の苦しみを短縮してやるために、火薬の袋を持って来て、それを犠牲者の首にくくりつけてやったくらいであった。<アンドレ=モロワ 同上 p.325>
 メアリの新教徒弾圧は市井の男女が多かった。メアリとスペイン人に対する憎悪が増大した。フリップは約束したにもかかわらず、フランスとの戦争イタリア戦争にイギリスを巻き込み、その結果、カレーを失うことになった。国民の期待は妹のエリザベスに集まった。誰からも見放されたメアリは、またしても妊娠したと思ったが、今度も水腫病に過ぎなかった。1558年11月17日、1ヶ月の孤独の末、この世を去った。宮廷のほとんどがエリザベスの周囲に集まっていたからである。
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ノートの参照
8章3節 イ.カルヴァンと宗教改革の広がり
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アンドレ=モロワ
/水野成夫・小林正訳
『英国史』上
1937 新潮文庫