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ヘンリ8世

ヘンリ8世
ヘンリ8世 宮廷画家ホルバインが描く

イギリス・チューダー朝の王。16世紀前半に絶対王政を強化し、ローマ教会と対立してイギリスの宗教改革を断行した。

 イギリスの絶対主義の時代、テューダー王朝の第2代の国王(在位1509~1547年)として絶対王政を確立するとともに、ローマ教皇パウルス3世と離婚問題から対立して破門され、イギリス宗教改革を断行した。また、イングランドのみでなくウェールズ、スコットランド、アイルランドの統治権も行使し、イギリスを一つの主権国家としての統合を進めた。また宗教改革を議会との協調で進めるなど、絶対王政ではあるが議会との概ね良好な関係を保った。それによって当時ヨーロッパの弱小国に過ぎなかったイギリスが後の大国に発展する前提を作ったと言うことができる。生涯6度の結婚をしたが、男子後継者はエドワード6世だけで、しかも彼も若くして死去したためヘンリの娘メアリ1世が王位を継承、メアリの時のカトリックへの反動などでテューダー朝は一時混乱したが、次のその妹エリザベス1世の時、ヘンリ8世の作り上げた国教会体制が完成することとなる。

絶対王政の強化

 ヘンリ8世は兄の早世により、1509年に17歳で即位した。父のヘンリ7世の政策を継承し、イギリスの王権の強化に努め、絶対王政の基礎を築いた。当時激烈をきわめていた、イタリア戦争でのフランス王フランソワ1世と神聖ローマ皇帝(スペイン王)カール5世の争いでは、双方から同盟を要請されたが、ネーデルラントを抑えているスペインと結ぶのを得策と考え、また王妃キャサリンがハプスブルク家出身(カールの叔母)であったので、当初はカール5世を支援した。

「信仰の擁護者」から教皇批判者への転換

 ヘンリ8世は、本来はカトリック教会と協調しており、1517年にルター『95カ条の論題』を発表するとそれに反論する論文を自ら公表した。このように彼は宗教改革には反対していたので、1521年にはローマ教皇レオ10世から「信仰の擁護者」の称号を受けている。ところが、1527年、王妃キャザリンの離婚をローマ教皇クレメンス7世に拒否されたことから対立が生じ、1533年に教皇から破門された。

イギリスの宗教改革

 ローマ教皇と対立を深めたヘンリ8世は、1534年に首長法(国王至上法)を議会で制定させ、ローマ教皇にかわってイギリス国王を教会の首長とする宗教改革を断行、イギリス国教会を創始した。次いで修道院を解散させその土地をジェントリに売り渡し、国民の支持を受けた。しかし、国王の離婚を非難したトマス=モアを処刑するなど、反対派を厳しく弾圧した。
 ヘンリー8世の宗教改革と結びついた絶対王政の強化策は、議会の下院を構成していたジェントリ層の支持を受けた。協力の代償として彼らは修道院財産の分配にあずかったからであった。 → イギリス議会政治

アイルランド王位を兼ねる

 アイルランドは12世紀以来、イングランド王が支配していたが、形式的にはローマ教皇がイングランド王にアイルランドへのキリスト教布教をするかわりにその太守として統治するという形をとっていた。そのもとでイングランドからの植民が行われ、アングロ系地主が先住民ケルト系ゲール人を従属さていた。ヘンリ8世は宗教改革でローマ教皇との関係を断ったことから、アイルランド議会においてみずからをアイルランド王とする独立王国とすることを議決させた。こうしてヘンリ8世はイングランドとアイルランドの連合王国を統治する国王となった。しかし、アイルランドのアングロ系諸侯は自立心が強く、またカトリック信仰が根強かったので、イングランド王の統治はなかなか浸透しなかった。

ヘンリ8世の離婚問題

ヘンリ8世が王妃を離婚しようとしてローマ教会と対立し、イギリス宗教改革の発端となった問題。

 ヘンリ8世の皇后キャサリンは、スペイン国王フェルナンド5世(アラゴン王としては2世)とイサベルの間の娘で、もとはヘンリ8世の兄のアーサーの妻であった。兄嫁と結婚したが二人の間には女子しか生まれず、王位継承の問題が浮上し、ヘンリ8世は離婚を決意するが、そこにローマ=カトリック教会との関係、さらに複雑な国際問題がからんで歴史的な大問題へと展開していく。
兄嫁との結婚   父の ヘンリ7世は創始したばかりのテューダー朝の安泰を図るため、スペインとの関係を築こうとし、息子アーサーとキャサリンとの結婚を成立させたのだが、アーサーが早世したため、弟ヘンリと再婚させたのだった。兄嫁と結婚することはカトリックでは許されないことであったが、当時二流国であったイギリスはスペインとの関係を維持する必要があったため、ローマ教皇ユリウス2世から特別の許可を受けて認めてもらったのであった。ところがヘンリ8世キャサリンの間の子供は女子一人(後の女王メアリ1世)を除いていずれも早世し、王位継承の問題が出てきた。1520年ごろ、ヘンリー8世は宮廷に仕える女性のアン=ブーリンと恋に落ち、キャサリンを離別してアンを皇后に迎えようと考えるようになり、1527年に教皇クレメンス7世にキャサリンとの離婚を願い出た。厳密には離婚ではなく、兄嫁だったキャサリンとの結婚は無効だったという申し出をしたのだが、かつて父ヘンリ7世が特別赦免で認めてもらった結婚を、今度は息子が同じ理由で赦免の取消を要請したわけであるから、ずいぶん勝手な言い分であった。
カール5世の横槍 「ところがここで横槍が入る。離婚を望んでいない叔母を慮ったカール5世である。折しもローマを占領中(ローマの劫略)だった皇帝は教皇に圧力をかけて離婚を阻止する。」<君塚直隆『物語イギリスの歴史(上)』2015 中公新書 p.192>
 このように、ヘンリ8世の離婚問題は、単に好色な国王の個人的な問題から始まったのではなく、国際問題だったことに十分注意しておく必要がある。また、離婚問題が必然的にイギリスの教会がローマ=カトリックとの絶縁とならざるを得なかったことも理解しなければならない。
イギリス宗教改革へ   ヘンリ8世はキャサリンとの離婚を合法化するため、1529年11月に議会を招集した。その後断続的に36年まで続いた議会を「宗教改革議会」という。1530年代にヘンリ8世は次々とローマ教会からの独立をはかる施策を議会で承認される中、32年暮れにアン=ブーリンの懐妊が判明した。このままだとアンの子は私生児となってしまうので、まず翌33年1月に秘密結婚し、4月にカンタベリー大司教トマス=クランマーによりヘンリ8世とキャサリンの結婚は無効とされ、6月にアン=ブーリンが王妃として戴冠した。「9月には待望の赤ん坊が生まれたが、ヘンリの期待に添わず女の子(後のエリザベス1世)だった。それに対して翌年、ローマ教皇パウルス3世は、ヘンリ8世を破門とし、ローマ教会と決定的に決裂した。
 1534年11月には首長法(国王至上法)を制定、国王をイギリスの教会の唯一最高の首長とする国教会制度をつくり、ローマ教会と絶縁してイギリス宗教改革を断行した。
トマス=モアの処刑 このヘンリ8世の王妃離婚をカトリックの教義の立場と、法遵守の立場から批判し、あくまで抵抗したのが大法官トマス=モアであった。ヘンリ8世はトマス=モアを反逆罪にあたるとして、1535年処刑した。

Episode ヘンリ8世の6人の王妃

 ヘンリ8世は生涯で6人の王妃を迎えた。いずれも男子の後継者を得たいがためであった。それまでイギリスには女王はいなかったからである。1509年、兄アーサーの寡婦であったキャサリン(スペイン王女)と結婚し、6人の子どもをもうけたが、そのうち5人までが死産か流産、あるいは早世し、残ったのは女の子メアリ(後のメアリ1世)だけだった。離婚を決意したヘンリ8世はローマ教皇と対立しながらもキャサリンを離別し、宮廷の侍女アン=ブーリンと結婚した。しかし彼女との間にも女子エリザベス(後のエリザベス1世)だけであった。しかもアン=ブーリンは、エリザベスを生んだ年に姦通罪で処刑(斬首)されてしまった。次ぎに同じく宮廷の女性だったジェーン=シーモアと結婚し、ようやく男子エドワード(後のエドワード6世)をもうけた。だがジェーンは出産時に死んでしまった。その次の王妃として迎えられたのはドイツ貴族の娘アンであったが、彼女は英語が話せなかったのでまもなく離婚させられ、次のキャサリン=ハワードも姦通罪で処刑(斬首)された。ヘンリ8世よりも長生きしたのは、最後の王妃キャサリン=パーだけであった。<小林章夫『イギリス王室物語』 講談社現代新書 p.37- などによる>

参考 映画『ヘンリー八世の私生活』

 1933年、イギリスで公開された映画『ヘンリー八世の私生活』は、国王ヘンリ8世の6人の妻との性生活を大胆にデフォルメして描いて人気を博し、国王役で快演したチャールス・ロートン(ホルバインの絵のまんまで登場)は、アカデミー男優賞を受賞した。アン=ブーリン(マール・オベロンの高貴で毅然とした姿が良い)の処刑から始まり、ジェーン=シーモア、アン(エルザ=ランチェスターが初夜のベッドでわざと変顔をするのが面白い)、キャサリン=ハワード(ビニー・バーンズの美女ぶりがめだつ)、キャサリン=パーと、次々に王妃を取り替える。ヘンリ8世が女好きで寂しがり屋だったからだけでなく、世継ぎのスペアを沢山も受けておかなければならないという側近たちの勧めによるものだ。しかし、ヘンリは何度も裏切られる。そんなドタバタ劇ではあるが、王政を皮肉っているとも言える作品を、イギリスで造ることができたことに驚きを感じる。さすがにイギリス人には創れなかったのか、この映画を実際に制作・監督したのはハンガリー出身のアレクサンダー=コルダだった。それでもドイツでヒトラーが政権を取った年に、よく創れたものだ。この映画は戦前に日本に輸入されたが、検閲を辞退したため公開されなかった(DVDの日野康一氏の解説による)。
 なお、ヘンリ8世を巡っては、その後も映画の題材によく取り上げられており、『1000日のアン』(1969)、『ブーリン家の姉妹』(2008)があるが、いずれも未見。なお、ヘンリ8世に抵抗したトマス=モアを主人公にした『わが命尽きるとも』(1966)もぜひ見ておいてほしい。
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ノートの参照
8章3節 イ.カルヴァンと宗教改革の広がり
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小林章夫
『イギリス王室物語』
講談社現代新書

君塚直隆
『物語イギリス史 上』
2015 中公新書
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イギリス映画
『ヘンリー八世の私生活』
チャールズ・ロートン他