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ベーリング

17世紀前半、ロシアのピョートル1世の命令でシベリア探検を行う。ベーリング海峡に達した。

ピョートル1世がベーリングにシベリア奥地の探検を命じたのは、科学者ライプニッツとの約束があったからであった。ライプニッツは1713年、ピルモントでピョートル1世と生活を共にし、アジア大陸とアメリカ大陸がつながっているのかどうかの疑問を解決できるのは皇帝をおいていない、と進言してた。その約束を思い出したピョートル大帝は、死の3週間前にシベリア奥地探検を命じる署名をした。

第1次カムチャツカ探検

 隊長に選ばれたベーリングはデンマーク生まれで海員となりインド航海などで名を挙げ、皇帝によってロシア海軍に採用されていた。1725年2月ペテルブルグを出発、3年以上の日時をかけてニジネ・カムチャツカに着き、そこで探検船聖ガブリール号を建造し、1728年8月15日に北緯67度18分に達し船首を南に転じた。ベーリングはこれで海峡の存在は明らかになったと考えたが、アメリカ大陸を確認することなく帰路に着き、1730年3月1日にペテルブルグに帰還した。

第2次カムチャツカ探検

 第1次探検では海峡を発見したが、アメリカ大陸を確認することができなかったので、再度探検隊を派遣することとなり、再びベーリングが指揮を執ることになり、他に多数の学者が同行、学術探検隊の様相を呈した。第2次探検隊は当時のロシアの総力を挙げたもので大北方探検と言われ、600人が参加し、1733~43年の10年間を要する大事業であった。その任務の一つには、カムチャツカから日本までの距離を測定することも含まれていた。
 1733年、第2次探検隊はペテルブルクを出発、ヤクーツクに補給基地を設けるなどの準備をしながら3年すごし、37年にオホーツク海に面したオホーツクに到達、そこで探検用の船舶の建造にさらに3年を要し、ようやく1740年、2隻の探検船が出航した。嵐のオホーツク海を横断してカムチャツカ半島南端をまわり、良港を見つけてペトロパブロフスクと命名して越冬した。当時、カムチャツカ半島の対岸には「ガマの陸地」あるいは「エゾ」と言われる陸地があるという説があったので、それを確かめるべく、東方の大海に乗り出したが、陸地は見つからなかった。途中濃霧のため二隻は離れ離れになり、ベーリングの乗った船はさらに北東に進んだところ、7月16日に陸地を発見し、はるかかなたに「高い山」がみえた。現在の北米の最高のセント・エリアス山である。

探検隊のアラスカ上陸

 1741年7月20日に上陸したのは現在のアラスカの南岸にあるカヤク島であった。60歳を過ぎていたベーリング自身は陸地を発見しただけで満足し上陸せず、すぐ引き返すことを命じたが、同行した学者のステラーは強硬に上陸を主張し、数人の士官とともに上陸し、原住民の生活の痕跡を見つけたが、ベーリングから短時間の上陸しか認められていなかったので、やむなく原住民と接触することをあきらめ、船にかえった。ともかくもこれが、ロシアの探検隊が北米大陸、アラスカに上陸した第一歩だった。年老いて体調の思わしくなかったベーリングは帰還を急がせた。しかし台風に襲われ、また病人のつぎつぎと出て高校が難しくなり、途中の無人島に上陸した。現在のアリューシャン列島のいずれかの島であったが、どこかは判らない。ベーリングも上陸したが、すでに体力を消耗しており、12月8日に死亡した。探検隊はその後も嵐に悩まされながらペトロパブロフスクに帰還し、1743年にペテルスブルクに戻った。<加藤九祚『シベリアに憑かれた人々』岩波新書 P.31-101>

Episode 砂に埋もれて死んだベーリング

 アリューシャン列島の無人島で死んだベーリングの最後は、先任士官のワクセルが次のように伝えている。
(引用)隊長ベーリングは12月8日に死亡した。彼の遺骸は板にしばりつけられ、土に埋められた。他の死亡者はすべて板なしで葬られた。隊長ベーリングの最後の悲惨な状況については記述するにしのびない。彼の体の半分は、その生涯の最後の日にすでに半分埋められていた。言うまでもなく、こうした状態における彼を援助する方法はあったが、土中に深くかくされた体の部分は暖かいが、表面に出ている部分はひどく冷たいと言って、助けを望まなかった。彼は、ひとりだけ別に小さな砂の穴――地下小屋に横たわっていた。その穴の壁からは絶えず砂が少しずつくずれ落ち、穴を半分ほども埋めていた。彼は穴の中央にねていたので、体の半分が砂に埋まることになったのである。<加藤九祚『シベリアに憑かれた人々』岩波新書 P.98>
 ベーリングの墓は正確には不明である。後にロシア領アメリカ会社によって、彼の墓と推定される場所に木の十字架が立てられ、1944年コンクリートの基台と金属製の十字架に代えられた。