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ピョートル1世/ピョートル大帝

17世紀末~18世紀のロシア皇帝。近代化政策と大国化を推進、北方戦争でバルト海進出を実現、ペテルブルクを建設。東方進出も果たし、清の康煕帝とネルチンスク条約で国境を策定した。

 ロシアロマノフ朝の繁栄を出現させた皇帝(在位1682~1725年)。ピョートル大帝と言われる。ロシアの専制君主政治であるツァーリズムの体制を完成させた。またロシアの大国化路線は、18世紀後半のエカチェリーナ2世に継承された。

ピョートルのヨーロッパ歴訪

 1696年から単独統治を行い、1697~98年、皇帝でありながらヨーロッパ各国の視察を自ら行う。その旅行で刺激を受けて積極的な西欧化政策を推進、西欧の技術者を多数招聘し、産業の近代化を行った。
 1697年、ロシアの西ヨーロッパ諸国への大使節団が編成された。ピョートルは「ピョートル=ミハイロフ」という変名で、一随員として加わった。まずプロイセン王国のケーニヒスベルクで砲術を習った。オランダにはいるとピョートルは単独行動をとり、造船所で一職工として働きハンマーをふるって造船技術を習得した。4ヶ月にわたるオランダ滞在で造船所に日参したほか、博物館、病院、裁判所を見学し、ライデン大学では解剖学の講義を聴いた。更に造船学を学ぶためイギリスに渡り、ウィリアム3世に歓迎され、造船所で技師見習いとして働き、砲弾工場なども見学した。このピョートルのプロイセン、オランダ、イギリス歴訪は、ロシアの西欧化政策の契機となり、また北方戦争を勝ち抜く力となった。

ロシアの大国化

南下政策 南方ではオスマン帝国とその属国であるハン国が領有する黒海沿岸に進出し、さらに黒海から地中海方面に勢力を拡大する、いわゆるロシアの南下政策の端緒をつくった。1696年、黒海につながるアゾフ海に面したアゾフを攻撃して占領した。この地は後の1711年、オスマン帝国の反撃をうけていったん放棄したが、ピョートル1世死後の1739年にロシア領と認められた。
バルト海進出 北方ではバルト海の覇権をめぐってスウェーデンカール12世との北方戦争を戦った。戦争は1700年から21年までの長期にわたり、ピョートル1世は緒戦に敗れたが、それを機に軍備を整え、バルト海沿岸に面して新都のペテルブルクを建設して長期戦に備えた。1709年ポルタヴァの戦いに勝利した。その後も戦闘は続いたが、ようやく1721年ニスタットの和約を締結した。バルト海の制海権を得たロシアは1712年に新都ペテルブルクを建設して遷都し、西欧への窓口とした。これによって、バルトの覇者としての地歩を確保した。軍備では特に海軍の育成に努め、ペテルブルクの近くのクロンシュタット要塞を拠点にバルチック艦隊を創設した。
東方進出 また東方ではシベリア進出を推し進め、清の康煕帝との間で1689年ネルチンスク条約を締結し、ロシアと清朝の間での最初の国境を画定した。これは清(中国)がヨーロッパ諸国と結んだ最初の条約であった。また1697~99年、コサックの隊長ウラジーミル=アトラーソフにカムチャツカ探検を命じ、日本との通商路を探った。晩年にはベーリングを派遣してカムチャツカ、アラスカ方面を探検させ、ベーリングは1728年アラスカに到達した。

ピョートルの西欧化政策

ピョートル大帝のひげ切り
ピョートル大帝(右。ハサミをもっている)が臣下のひげを切っている当時の風刺画。
 17世紀はじめ(1613年)に成立したロシア・ロマノフ朝は、スウェーデン王国、ポーランド王国に圧迫され、東ヨーロッパでは弱小勢力にすぎなかった。国内には依然として農奴制を基盤とした有力貴族が存在し、産業も未熟であり、近代的な軍隊の創設が急がれていた。そこでロマノフ朝のツァーリは、西ヨーロッパ諸国に習った国家の創出をめざし、制度・産業の西欧化を進めた。特に急速に進めたのがピョートル1世(大帝)であった。ピョートル1世の時代に、産業・軍事・税制・官僚制などで特にプロイセンを手本とした改革が行われた。しかし、社会の根幹にある農奴制には基本的には手をつけず、「上からの改革」にとどまり、「ロシアの後進性」をぬぐい去ることはできなかった。

Episode ピョートル、貴族の髭を切る

 ピョートルは外遊から帰国すると、その服装も西欧風に改めた。そして挨拶にきた貴族を捕まえては、そばに控えたこびとに羊毛用のハサミを持たせ、あごひげをちょん切ってしまった。ロシアの貴族は昔からあごひげを蓄えるのが習慣であったが、ピョートルは「新しいロシア」にはそぐわないと、貴族たちのあごひげを切ってしまったのである。右の絵は当時のピョートルの命令で貴族の髭を切るこびとを描いたもの。

ピョートルと日本の関わり

 17世紀まで、ロシアでは日本についてほとんど知られていなかった。ピョートルはヨーロッパ歴訪中、オランダに滞在したとき、アムステルダムの市長から日本の話を聞き、日本の地図も献じられた。しかし当時はオランダ、清いずれの船も南から往来していたので、日本の北部がどうなっているかわからなかったため、サハリンと北海道は区別されず広大な「エゾ」とされていた。日本が磁器や漆器を産出する高度な文明国であることを知ったピョートルは、ロシアと日本の北辺がどこで接近しているかさぐろうとした。1689年、ネルチンスク条約が締結されロシアはアムール河口から南下できなくなったので、カムチャツカからの接近を試みようとして、1697~99年、コサックの隊長ウラジーミル=アトラーソフに探検を命じた。
日本語教育を命じる カムチャツカを探検したアトラーソフは、現地で原住民の捕虜となっていた日本人に出会った。デンベイ(伝兵衛)と言うこの日本人は、1695(元禄8)年、大坂から米、酒などを積んで江戸にむかう途中に難破し、6ヶ月も漂流してカムチャツカ南部にたどり着いたという。アトラーソフは伝兵衛をモスクワに連れて行ってシベリア庁に報告した。これを聞いたピョートルは、自ら伝兵衛に会い、日本の話を聞いてその文明の高さに興味を持ち、ロシア語の習得と日本語をロシアの青年に教えることを命じた。1705年には勅令を出して数名の青年に伝兵衛について日本語を学ぶように命じ、同時に日本との通商を開くことも掲げた。
 伝兵衛は帰国を望んだが許されなかった。しかし伝兵衛が死んだら日本語教育ができなくなるので、日本の漂流民が発見されることをシベリア庁に命令を出したところ、1710年にサニマ(三右衛門?)と呼ばれた日本人がカムチャツカに漂着し、ペテルブルクに送られてきて、彼は伝兵衛の助手となった。1729年には薩摩から大阪に向かう途中で遭難した若潮丸がカムチャツカに漂着した。17人の乗組員はほとんどが現地のコサックに殺され、ソーザとゴンザの二人だけが生き残った。この時はピョートルはすでに死んで女帝アンナの時代になっていたが、二人は女帝に謁見して洗礼を受けロシア名を名乗った。
女帝アンナ、日本語学校を開設 1735年、二人は日本語を教える命令を受け、翌年ペテルブルクの科学アカデミーに日本語学校が開設された。ゴンザは日本語を習得した科学アカデミーのアンドレイ=ボグダーノフに協力して、露日辞典や日本語会話の本を編纂した。世界で最初の露日辞典は、ゴンザの出身地である薩摩訛りで書かれていた。ゴンザは間もなく21歳の若さで亡くなったが、二人のデスマスクは今もペテルブルクの人類学・民族学博物館に保存されている。<外川継男『ロシアとソ連』講談社学術文庫 p.145-149>