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ニスタットの和約

北方戦争での講和条約として、1721年のロシアとスウェーデンの間で締結された。勝利者となったロシアはバルト海進出を果たし、ピョートルは大帝と言われるようになった。敗れたスウェーデンはバルト帝国としての覇権を失った。

 ロシアピョートル1世の時の、スウェーデンとの北方戦争1700年~1720年)の結果として1721年9月10日に締結された、講和条約。ニスタット Nystadt は講和会議の開催されたフィンランドの地名。一般的にはニスタットだが、ニースタート、あるいはニースタードの表記(山川セレクション『北欧史 上』p.173)も見られる。

ロシアのバルト海の覇権確立

 ロシアはリガを含みリヴォニア、エストニア、イングリア、カレリアの一部などバルト海沿岸の地域を獲得。スウェーデンはロシアに占拠されていたフィンランドを回復したが、賠償金の支払いの義務を負った。両国は商業の自由を約したが、ロシアは念願のバルト海進出を果たし、スウェーデンはその覇権を失った。ロシアの発展にとって重要な転機となる条約であった。
 ロシアとスウェーデンの間のフィンランドは、スウェーデン領であったが、東部カレリアおよび南東部をロシアに割譲した。

「バルト帝国」スウェーデンの覇権の終わり

 ロシアとの北方戦争は17世紀後半以来、「バルト帝国」と言われていたスウェーデンにとって大きな試練であった。若きスウェーデン王カール12世は大敵ロシアに立ち向かい、緒戦のナルヴァの戦いで勝ったものの、1709年ポルタヴァの戦いの決戦に敗れ、オスマン帝国に逃れた。長い亡命生活を送ったカール12世は、スウェーデンに戻るといったんはロシアと講和し、西方の敵デンマークに奪われたノルウェーを奪還しようとして遠征したが、、1718年、その戦場で流れ弾に当たって戦死した(その死には暗殺説もあることはカール12世の項を参照)。
 東のロシアと西のデンマーク・ポーランド・プロイセンと両面に敵を抱えたスウェーデンは、カール12世の戦死による王位継承問題もあって混迷し、まずデンマーク、プロイセンなど西側と講和し態勢を立て直そうとしたが、劣勢を挽回することは出来ず、ついにロシアとの講和に追い込まれ、1721年の二スタート和約締結となった。
 ニスタット和約(ニースタード条約)によって、スウェーデンはロシアに占領されていた前ポンメルンの西半分、ヴィスマル、フィンランドは返還されたが、それ以外のバルト海対岸のスウェーデン領はすいべて失った。20年にわたって続いた北方戦争は終わったが、それは「バルト帝国」スウェーデンの覇権の終わりであり、替わってロシアとプロイセンが台頭することとなった。<山川セレクション『北欧史』上 p.173>

「ロシア帝国」の誕生

 ロシアのピョートル1世にとって、北方戦争の勝利とニスタット和約の締結は決定的に重要な意味をもっていた。1721年4月末に始まった和平会議は、ロシアの勝利をスウェーデンが承認するためのものであり、和平の条文作成にはピョートル自身があたった。8月31日(西暦では9月10日)に調印された和平条約により、ロシアはフィンランドなどはスウェーデンに返還したもののリヴォニア、エストニア、イングリアなどを含むバルト海東岸のカレリア地方の一部に対して「永続的な領有および所有権」を認められた。これはロシアにとって画期的なことで、念願のバルト海への進出を実現し、この地域の殆どは1991年にバルト三国として独立するまで、戦間期の一時期を除いてロシア領・ソ連領として続く。これによってロシアは地理的にもヨーロッパの一員となったのである。
「ロシア帝国」と「ピョートル大帝」の始まり 1921年10月22日(ロシア暦)、サンクト=ペテルブルクでニスタット和約の締結を祝う盛大な祝典が開催された。元老院議員の最長老ゴロウキンはその場を埋めた聖俗の高官の前で、ピョートルが「20年にわたる苦しい努力を立派に実らせ、国家の幸福と安寧をもたらした」とその功績を称え、「皇帝」、「祖国の父」、そして「大帝」という称号を授与した。礼砲が鳴り響くなか、ここに「ロシア帝国」が誕生したのである。
 西欧列強は「ロシア帝国」「皇帝」という称号をすぐに承認することはなかったが、1745年のフランスを最後にヨーロッパの殆どの国が承認した。ピョートルの晩年にはヨーロッパの20の国に大使館・領事館を置き、国際政治においてロシアの存在は無視できないものとなった。
 ニスタットの和約は画期的ではあったが、ピョートルの対外政策にピリオドを打つものではなかった。1722年10月、彼は10万の軍隊とともにペルシア遠征に出発した。貿易の利益獲得を狙ったこの遠征で、カスピ海沿岸を手に入れたピョートルは、他のヨーロッパ列強の君主が南北アメリカやアフリカ、東インドに殖民地拡大に乗り出したのにあわせて、南進政策と東方進出を目指したのだった。<土肥恒之『ピョートル大帝とその時代:サンクト・ペテルブルグ誕生』中公新書 1992 p.91-93 → ロシアの南下政策  ロシアの東アジア侵出