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連邦派/フェデラリスト・連邦党/フェデラリスト党

アメリカ合衆国憲法制定過程で、憲法制定を主導し、連邦政府の権限強化を主張したハミルトンらが中心となった党派。反連邦派・リパブリカン党を抑えていたが、1800年を境に衰退した。

 連邦派、フェデラリスト Federalists アメリカ独立革命が進展する中、1787年から始まったアメリカ合衆国憲法を制定するための憲法制定会議が開催されたとき、独立後の新国家をどのような形態にするかを巡り、二つの潮流が存在した。アメリカ合衆国は13植民地がそれぞれ邦として独立し、大陸会議を統一政府として独立戦争を戦っていたが、一つの潮流は13邦の連合を強化し、一つの憲法の下で中央政府としての連邦政府の権限を強くすることを主張し、彼らが連邦派(フェデラリスト)と云われた。フェデラリストとしてその指導的立場にいたのがハミルトンらであり、彼が中心となってアメリカ合衆国憲法草案の作成を進めていった。それに対して、連邦政府の強大化に反対し、各州の独立性を強くすべきであると主張したのが、反連邦派(アンチ=フェデラリスト)であり、その中心的人物はジェファソンらであった。

連邦派の支持基盤

 ハミルトンなど連邦派(フェデラリスト)の主張は、憲法と強力な政府に指導される統一的な国家の形成をめざすものであり、その財政基盤としての商工業の発達を促そうというものであったので、地域的には東部海岸の都市部を基盤とし、比較的裕福な商工業者で、資本主義的なアメリカをめざす有産階級の支持が強かった。彼らは、農民や労働者層の政治参加を好まず、当時ヨーロッパのフランス革命で高まった「デモクラシー」に対しては秩序を乱す危険思想視していた。そのような思想傾向から、ハミルトンらはイギリスともむしろ友好的な外交をめざした。

合衆国憲法をめぐる議論

(引用)憲法の草案が発表されると、嵐のごとき論議が起こった。一方ではこれは中央集権の専制政治を打ち立て、各邦を単なる地方にし、大統領はジョージ3世より悪い君主となるであろうと攻撃し、一方、自由の味方は「権利の章典」がない、と批判した。これらの攻撃に対し、憲法草案を弁護した、アレクザンダー=ハミルトン、ジョン=ジェイ、ジェイムズ=マディスンらは87年10月から88年5月の間に、85の論文を書き、ニューヨークの新聞に発表し、それは他邦の新聞にも転載され、88年春には『フェデラリスト』The_Federalistという2巻として刊行された。これはアメリカ憲法についての最も深刻該博な大著であり、また政治学に関する古来まれな一大傑作であると今日なお一般に認められている。<ビーアド『新版アメリカ合衆国史』p.143>
 憲法制定会議は激しい議論を戦わせながら、最終的には連合国家を発足させることで合意が成立し、連邦派の主張に沿って外交権や徴税権、徴兵権を持つ連邦政府を発足させながら、反連邦派の主張も取り入れて連邦主義を採用し、各州の自治も大幅に認める、アメリカ合衆国憲法を1787年に制定した。これ以後は、憲法をより広く解釈して連邦政府の権限を広げるか、狭く解釈してでそれをできる限り制限するか、という憲法解釈上の問題となっていく。1791年には反連邦派の意見を容れて、最初の憲法修正である権利章典の条項を加えた。

政党への転化

 アメリカ合衆国の建国に際しての連邦政府の樹立は連邦派の主張に沿ったものであったので、ワシントン大統領(大統領自身は連邦派ではなかった)のもとで、ハミルトンが財務長官となった他、政権の主流を占め、国立銀行の設置などの政策を進めた。ただこの頃は一党が政権を独占するという政党政治の枠組みはまだ出来上がっておらず、反連邦派からもジェファソンが国務大臣に就任した。閣内でも両派の論争は続いてが中立的なワシントンが両派のバランスをうまくとりながら政権運営を行った。
 ワシントンが二期大統領を務めた後に、第2代大統領に当選したのは連邦派のジョン=アダムスであった。そのもとで、次第に反連邦派は中枢から除外されるようになって不満も高まり、両派の対立は深刻となっていった。それまでは政府部内の意見の対立する二つのグループに過ぎなかったが、このころからそれぞれが党派を結成し、敵対的な関係になっていった。連邦派(フェデラリスト)は「連邦党(フェデラリスト党)」といわれるようになり、一方の反連邦派のジェファソンらは1791年にリパブリカン党を結成した。

連邦党の政策

 1789年~1816年はおおよそ、連邦党(フェデラリスト党)対リパブリカン党の二党派がアメリカ合衆国の対立軸であった。その間の連邦党の掲げた政策の要点は次のようなものであった。<ビアード/斉藤眞・有賀貞訳『アメリカ政党史』UP選書 p.33-36 から要約>
  • 公債制度の確立と独立戦争中の州債権の肩代わり ハミルトン財務長官の課題であった新政府の財政安定のための公債発行と州政府を連邦政府に従属させるための債権肩代わりであったが、その財源は農民への重税によってまかなった。
  • 保護関税 まだ未熟であったアメリカの産業を保護するため、輸入外国製品に高関税をかけた。
  • 合衆国銀行の設立と通貨発行 公債を引き受け、銀行券(紙幣)を発行する中央銀行として設立され、州の紙幣発行権は停止された。同時に合衆国公定の金銀貨も発行し、統一的で健全な通貨制度を開始した。
  • 海軍・陸軍の創設 海軍は公海における通商の保護、陸軍は合衆国に対する反乱の鎮圧も任務とされた。
  • 外交 フランス革命に伴って始まった英仏の対立に対して、ハミルトンは親イギリスの姿勢をとった。国家秩序を重視するハミルトンは、フランス革命で生まれたデモクラシーの風潮を警戒していた。

連邦党の衰退

 建国から20年間はほぼ連邦派=連邦党が優勢で推移していたが、アメリカ合衆国の勢力が西部に広がり、開拓農民が多くなっていくと、彼らは連邦党の政策は東部の商工業者(資本家)の立場に立ち、農民を苦しめていると捉えるようになり、その反対党であるジェファソンのリパブリカン党を支持するようになった。
 1800年の選挙では現職の連邦党アダムスがリパブリカン党ジェファソンに敗れるという変化が起こった。これはジェファソン自身が「1800年の革命」といったほどアメリカ合衆国の最初の方向転換であった。また、ハミルトン自身も政敵との決闘で倒れ、連邦党は急速に勢力を無くして消滅した。
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ノートの参照
第11章2節 イ.独立戦争
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C.A.ビアード
/斉藤眞・有賀貞訳
『アメリカ政党史』
1968 UP選書