印刷 | 通常画面に戻る |

パリ=コミューン

1871年3月、普仏戦争の講和に反対したパリ市民が蜂起して成立させた世界最初の労働者政権。

 普仏戦争は1870年9月のスダンの戦いで皇帝ナポレオン3世が捕虜となり、プロイセンは余勢を駆って翌71年正月にヴェルサイユに入り、ドイツ帝国の皇帝戴冠式を挙行した。2月26日、フランス臨時政府の行政長官ティエールは、賠償金支払いとアルザス・ロレーヌの割譲を提示して講和し、プロイセンは3月1日、パリに入城した。

労働者政権の成立

 3月18日、臨時政府側が国民軍の武装解除に当たろうとしたことに激高したパリ市民が蜂起。臨時政府のティエールはパリを放棄しヴェルサイユに逃走し、パリは革命派の市民が権力を握った。一気にヴェルサイユ進撃を主張するグループもあったが、まずパリの掌握が優先された。3月26日、コミューン議会の議員選挙が行われ、91名の議員が選出された。翌日、パリ市庁舎前に20万の市民が集まり、赤旗が立てられ、コミューンの成立が宣言された。ついで執行委員会以下、10の委員会が設置され、コミューン政治が開始された。

労働者政権の政策

 ブルジョア的三権分立はとられず、官吏は徹底したリコール制のもとにおかれ、その俸給は労働者の賃金水準を超えないこととされた。また常備軍の廃止、政治と宗教の完全な分離、教育の世俗化、などが打ち出された。

労働者政権の構成

 しかし、コミューン内部には、ブランキ(彼自身はヴェルサイユ政府に捕らえられていた)の影響を受けた急進派や、プルードンの影響を受けた無政府主義者などを含み、マルクス派は少数派であった。またパリ以外の都市でもコミューン運動が起こったが、保守的な農村部の中で連絡が取れず、パリは孤立していた。

労働者政権の崩壊

 態勢を整えたヴェルサイユ政府軍は4月2日から攻撃を開始、5月21日にパリに突入し、激しい市街戦となった。パリ東部にはドイツ軍がコミューン軍の退路を断ったため、コミューン軍はパリ市街に火を放ち抵抗した。ペール=ラシェーズ墓地に追いつめられたコミューン兵士は28日全滅し、敗北した(「血の週間」)。その後もコミューン派への弾圧が続き、約4万人が逮捕され、270名が死刑となり、多数が強制労働、禁固、流刑に処せられた。その中には有名な画家クールベもいた。
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第12章2節 エ.第二帝政と第三共和政