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ルイ=ナポレオン

ナポレオンの甥として19世紀後半のフランスで権力をふるう。1848年の二月革命後に第二共和政の大統領に当選、1851年12月にクーデタで独裁権力をにぎり、1852年12月に皇帝に即位しナポレオン3世となる。フランスの復興を目指し産業の保護などに努めると共に、国民的支持を得るため、積極的な対外政策(クリミア戦争、イタリア介入、メキシコ出兵、中国・インドシナ進出など)を進めたが、最後はビスマルクのプロイセンとの普仏戦争に敗れ、1871年に退位した。

 ルイ=ナポレオン(1808~1873)の父はナポレオン1世の弟でオランダ王だったルイ。その3男がルイで、母はナポレオンの前妃ジョゼフィーヌと前夫(革命で処刑された)との間に生まれたオルタンス=ド=ボアルネ。ナポレオン1世の退位とともに亡命生活に入り、七月王政期にフランスに戻り、1848年の二月革命後の第二共和政下での大統領選挙に出馬して当選し、1851年のクーデタで実権を握り、同年末皇帝に即位しナポレオン3世となる。その後第二帝政期のフランスを統治、産業資本家、農民の幅広い支持でボナパルティズムと言われる独裁を行う。その間、クリミア戦争など積極的な対外政策を展開して国民的支持を受けたが、普仏戦争に敗れて1871年に退位した。

亡命と獄中生活

 1815年、ナポレオン1世の没落により一族とともに追放され、母オルタンスに伴われてスイスで亡命生活に入る。アウクスブルクで教育を受けた後、たびたびイタリアを訪ね、兄のルイとともに愛国的貴族と近づきカルボナリに参加し、イタリアの独立運動にかかわった。
 ルイ=ナポレオンの亡命中、フランスでは1830年の七月革命でルイ=フィリップの七月王政が成立した。若きルイ=ナポレオンは陰謀を企み、1836年にはストラスブールから支持者と共にフランス帰還を試みたが失敗し、ロンドンやアメリカを転々とし、その間、見聞を広めた。1840年8月、ナポレオン1世の遺骸がパリに帰還したのに乗じ、突如ブーローニュに上陸、蜂起を企てるが再び捕らえられ、終身犯としてパリ北東のアム要塞に監禁されたが、その5年に及ぶ獄中生活で、イギリス古典派経済学やオーウェンルイ=ブランなどの社会主義の書物を読んで影響を受け、44年には『貧困の絶滅』という著作を発表した。

Episode ルイ=ナポレオンの脱獄

 「1846年5月25日、ルイ=ナポレオンはみずから注文した部屋の改造工事を利用して、脱出しようとした。要塞内で働く労働者の姿に身をやつし、髭を剃り、足に木靴、頭にハンチング帽、肩に顔を隠すための板を担いだ格好で、看守の注意をひくこともなく中庭を横切る。外に出ると仲間が彼を待ちかまえていた。作戦は周到に準備されていたので、予想通り展開した。日が落ちる頃、皇子はベルギーに逃れ、そこからロンドンにたどり着いた。」ロンドンでは父と母の遺産を使い切ってしまった。<ティエリー・ランツ『ナポレオン3世』1995 文庫クセジュ 白水社 p.46>

二月革命でフランス復帰

 1848年二月革命でルイ=フィリップの七月王政が倒れ、フランス復帰の機会が訪れた。さらに労働者の六月蜂起が鎮圧されて共和派が一掃された後の9月の立憲議会補欠選挙に立候補し当選し、ようやくパリに戻った。そのときすでにナポレオンの子供(ナポレオン2世)は死に、伯父たちもほとんど亡くなっており、彼がナポレオンの唯一の後継者であったので、次第に国民的な人気を獲得することになった。

第二共和政大統領となる

 1848年12月の大統領選挙では、六月蜂起を鎮圧した軍人カヴェニャック、ブルジョワ共和派のラマルティーヌ、社会主義共和派のラスパイユ、正統主義者のシャンガルニエらの対立候補を破り、547万(投票総数の4分の3)で当選し、フランスの大統領となった。「赤い妖怪」と言われた社会主義におびえ、経済不況にもてあそばれた農民、債権のに苦しむ小商店主、小工場主などが彼を支持した。また、銀行家・産業家もルイ=ナポレオンが財産・宗教・家族の尊重など社会秩序を約束したので彼を支持した。大統領選挙は第二共和政憲法に基づいたものであり、当選したルイ=ナポレオンはフランスで最初の男子普通選挙によって撰ばれた大統領となった。

1851年のクーデターで独裁権獲得

 大統領ルイ=ナポレオンは、共和政尊重の姿勢を示して共和派と協力したが、議会内には王党派などの右派、急進的な共和派などが対立し安定しなかった。また議会の保守派が結んで、選挙制度の改悪(選挙権を居住3年以上に限定して移動の多い季節労働者などから選挙権を奪おうとした)などの決めたことで労働者の不満が強まったことを背景に、権力強化に乗り出し、4年に限定されていた大統領任期の延長を企てた。1851年12月2日クーデタを決行して議会から共和派を追放し、パリで起こったクーデタ反対の市民蜂起を鎮圧した。さらに「大統領ルイ=ナポレオンの権威を認め、任期延長を支持するかどうか」についてのウィかノンかを問う国民投票を実施、714万票対59万票の大差でそのクーデタは承認を受けた。それをうけて翌52年1月には新憲法を制定して大統領任期を10年に延長し、さらに立法権の一部を付与するなど権限を強化した。また大統領には議会に諮らずに国民投票で案件の可否を問う権限が与えられた。

国民投票で皇帝に

 クーデタと新憲法で実質的な独裁権を握ったルイ=ナポレオンは、議会内のボナパルト派の支持を受け、彼らから皇帝就任の要請を出させた。1852年10月9日のボルドーでの演説で、「フランスは帝国に戻りたがっているように思います。・・・一部の人々が抱く不安には私は応えなければなりません。彼らは挑戦的な意図をもって言います。‘帝国、すなわちそれは戦争ではないか'と。私はこう言いましょう。‘帝国とは、平和だ'と。・・・」と述べた。同年11月上院は86対1で帝政復活を決議。さらに12月に、1月に制定された憲法に基づいて国民投票が実施され、賛成782万4千、反対25万3千(投票率75%)の圧倒的な差で確定された。こうして彼は1852年12月2日に皇帝位につきてナポレオン3世となり、第二帝政が開始された。<ティエリー・ランツ『ナポレオン3世』1995 文庫クセジュ 白水社 p.68>

ナポレオン3世

1852年、ルイ=ナポレオンが国民投票で即位。第二帝政となる。積極的な産業保護政策など、フランスの近代化を実現したものの、冒険的な外交政策での失敗をきっかけに権威を失墜させ、1870年、プロイセンのビスマルクの挑発に乗っての普仏戦争に突入、自らスダンの戦いで捕虜となり、第二帝政は終わりを告げた。

 第二共和政の大統領ルイ=ナポレオンは、1852年11月元老院(上院)の帝政復活提案を受け、同20日国民投票。その結果、783万対25万の圧倒的支持で承認される。12月2日、クーデタ記念日にルイ=ナポレオンはナポレオン3世として帝位につく。こうして第二帝政が始まった。

皇帝の権威帝政

 1852年憲法において、皇帝は軍隊を指揮し、開戦を宣言し、平和条約を結び、条約について交渉し、すべての職務の任命を行う。政令と法の施行規則を作り、恩赦や特赦を宣言し(ナポレオン3世はよくこれを行った)、公共工事を許可するのも皇帝である。皇帝のみが法案の発議をし、立法過程の最後に決定的な拒否権を握り、彼にのみ従属する大臣を指名し、また罷免できる。閣僚は106人もいたが、それは合議機関ではなく、皇帝に情報を伝え、彼らが指示を受けるための会に過ぎなかった。立法権は元老院(指名議員)と立法院(普通選挙による選出議員)に分割され、法令登録の権限しかなかった。ナポレオン3世はそれでも民主主義を尊重する「民主的独裁」を標榜したが、その根拠となるのは国民投票であった。国民投票が認められていくことによって形のうえでは「人民主権」と言うことができたが、実際には1852年の皇帝即位の可否と、最後の1870年の皇帝の権威を認めるかどうか二者択一の投票の二回しか実施されなかった。<ティエリー・ランツ『ナポレオン三世』1995 文庫クセジュ 白水社 p.82-85>

ナポレオン3世の内政「馬上のサン=シモン」

 ナポレオン3世の政治は、前半の1850年代の「権威帝政」といわれた権威主義的な独裁政治が前面に出た時期と、60年代の「自由帝政」といわれれた自由主義的な改革を採り入れた時期とに区分される。権威帝政の時期は1853年~56年のクリミア戦争への参戦と勝利、1855年パリ万国博覧会の開催という外交の成功によって権威を高め、皇帝批判の言論や自由な政治活動を抑えることができた。
 彼自身が亡命時代に共和政、自由主義、サン=シモン主義の洗礼を受けていた(当時ナポレオン3世は‘馬上のサン=シモン’と言われた)こともあって、60年代から改革的な動きを示すようになる。それは1860年以降の議会での請願権を認めたこと、ストライキ権の承認、言論・結社の自由の一部承認などに現れた。そのような中で最も重要な改革が、1860年英仏通商条約の締結である。これは関税の大幅引き下げ、輸入禁止項目の廃止などに踏み切ったもので、フランスも自由貿易政策に転換したことを意味している。同様な条約をプロイセン、ベルギー、イタリアなどとも締結し、ここにヨーロッパの自由貿易原則が成立した。従来の保護貿易政策で守られていた旧来の産業資本家の反対を見越して極秘に交渉され、皇帝大権として締結されたこの条約によって、フランス産業はイギリス工業製品との競争にさらされ、手工業的中小企業は淘汰され、技術革新と資本の集中が一段と進み、銀行の設立・鉄道の普及などの金融・社会資本(インフラ)の整備・首都パリの改造も進んで、フランスの産業革命が完成した。

積極的な外政とその失敗

 ナポレオン3世の政治は、小農民層の支持を受けて大国フランスの威信を発揮することによって支えられていたので、対外戦争の連続であった。まず皇帝となった翌1853年にはクリミア戦争を仕掛け、大勝して名声を挙げた。これはイェルサレムの聖地管理権を口実にロシアと戦うことで、国内のカトリック勢力の支持を受けると共に、ナポレオン戦争での敗北以来のフランスの勝利をもたらしたことで、国民的人気を博することに成功した。
 次いでサルデーニャ王国の首相カヴールプロンビエールの密約を結んでオーストリアに宣戦し1859年イタリア統一戦争に出兵した。これは当時の大国オーストリアに対抗して、フランスの地位の復活を目指したものであったが、サルデーニャによるイタリア統一はローマ教皇の立場を弱めることになるので国内のカトリック教会は積極的ではなかった。ナポレオン3世はみずから大軍を率いて遠征したにもかかわらず、突如オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世と交渉して単独講和(ヴィラフランカの和約)に応じたため、サルデーニャの反発を買い、国内でもその一貫しない外交政策に批判が強まった。
 ナポレオン3世の外交政策の誤りがはっきりしたのが1861年メキシコ出兵であった。これはアメリカ合衆国の南北戦争に乗じてラテンアメリカに足場を築くことを狙ったものであったが、メキシコ民衆の激しい抵抗を受け、またアメリカの反発もあって撤退を決定、みずからがメキシコ皇帝として送り込んだマクシミリアン1867年6月に処刑され、見殺しにするという失態となった。
 この間、植民地の拡大につとめ、アジア方面でも中国とのアロー戦争、さらにインドシナ出兵に続くベトナムなどの植民地化を行った。他にもアフリカでのアルジェリアの反乱鎮圧、セネガルの獲得など、この時代にフランス植民地帝国が形成された。

普仏戦争の敗北

 当時ドイツの統一を目指して目覚ましく台頭したプロイセン王国ビスマルクは、フランスとの衝突を不可避として軍備を整えていた。スペイン王位継承問題で対立した両国は、ビスマルクがエムス電報事件でナポレオン3世を挑発してついに1870年普仏戦争の開戦となり、1870年9月2日スダンの戦いで敗れて彼自身が捕虜となり、退位せざるを得なくなった。

Episode 何で、自殺しなかったのよ!

 1870年9月3日、スダンのナポレオン3世からパリのテュイルリー宮殿のウージェニー皇后のもとに電報が届いた。「軍は敗れた。我が兵士たちの間で戦死することあたわず、軍を救わんがため、捕囚となる道を選んだ」ウージェニー皇后は一読するや顔面蒼白になり、わめき散らした。「なんで、自殺しなかったのよ、あの人は! 自分の名誉を汚すことになるのに気がつかなかったの? 息子に、いったい、どんな名前を残すつもりなの?」4日の朝、パリの民衆は「共和国万歳!」と叫んで立法議会になだれ込み、ガンベッタを議長席にあげ、帝政の廃止を宣言させ、パリ軍管区司令官ロンシュ将軍を首班とする臨時政府を成立させた。ウージェニーは宮殿から脱出しイギリスに亡命、その地から皇帝復位を画策したがいずれも失敗した。捕虜となったナポレオン3世はカッセルの近郊で優雅な捕囚生活を送っていたが、その間、1871年1月にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世が即位、3月に正式に講和が成立した時点で解放され、イギリスに渡った。もとナポレオン3世、つまりルイ=ボナパルトとウージェニー、息子のルイの三人はドーバー海峡に面したヘイスティングスの郊外で生活、なおも本国のナポレオン派が帝政復活の策謀を計画したが、すでに持病が悪化して行動に移れず、1873年1月に死んだ。息子のルイはイギリス軍に志願し、1879年アフリカでズールー族との戦争に参加して戦死した。妻のウージェニーは1920年まで生きた。<鹿島茂『怪帝ナポレオン3世』2004 講談社学術文庫 p.569-588>

ボナパルティズム

 カール=マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』の冒頭で、「ヘーゲルはどこかでのべている、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれるものだ、と。一度目は悲劇として、二度目は茶番として、と、かれは、つけくわえるのをわすれたのだ。ダントンのかわりにコーシディエール、ロベスピエールのかわりにルイ・ブラン、1793年から1795年までの山岳党(モンターニュ)のかわりに、1848年から1851年までの山岳党、叔父のかわりに甥。」と述べている。この書でマルクスは、ナポレオン3世を叔父の権威を利用して権力を握った無能な人物と断定し、その権力はブルジョワジー、小農民層、労働者などの諸階級の対立がどの勢力も決定的な力を持たないとき、独裁政治の調停機能に期待するところに成立したものと考え、そのような独裁者がとった冒険主義的な侵略戦争がその没落をもたらしたと分析し、そのような政治権力のあり方をボナパルティズムと名付けた。

ナポレオン3世は間抜けな皇帝か?

 マルクスの見解は強い影響力を持ち、ナポレオン3世は叔父の名声だけを利用して、陰謀と人気取り政策によって権力を手に入れたに過ぎず、人間的にも権力欲の強い、好色で破廉恥な独裁者であったという評価が根強い。そのような評価が定着したのは、第二帝政に抵抗して長く亡命生活を送った共和派で、『レ=ミゼラブル』の作者として名高いヴィクトル=ユーゴーが、徹底的な反ナポレオン3世の言動をとったことも大きい。そして決定的なのは、ナポレオン3世がビスマルクの奸計に乗せられて普仏戦争で捕虜になってしまったことであり、独裁者、好色の上に、「間抜けな」皇帝というありがたくない評価がつきまとっている。
 しかし、フランスの資本主義の発展にとっては、ナポレオン3世とその第二帝政は決定的なテイク=オフ(離陸)の時代であり、その中でのナポレオン3世の役割について積極的な評価も出されている。ナポレオン3世は無思想、無定見な権力者だったのではなく、若い頃からイギリス古典派経済学やサン=シモンの産業社会論を知り、そのアイディアを独裁権力のもとで実行した。投資銀行の設立、鉄道の普及、万国博覧会の開催、パリ大改造、そして自由貿易政策への転換などがそれであり、これによってフランスは産業革命を達成することができたということができる。このような面からのナポレオン3世と第二帝政の見直しを大胆に提示したのが鹿島茂氏の一連の著作である。鹿島氏はナポレオン3世を「バカな陰謀家」として色眼鏡で見るのでなく、また第二帝政も単に抑圧的な独裁体制と決めつけるのではなく、その実像に迫り、ナポレオン3世は「人為的に加速型資本主義」を産みだして現代の消費資本主義の原型を作ったと指摘し、それにはサン=シモンの産業社会思想が大きな影響を与えたとして重視している。<鹿島茂『怪帝ナポレオン3世』2004 講談社学術文庫版/同『デパートを発明した夫妻』1991 講談社現代新書/同『絶景、パリ万国博覧会 -サン=シモンの鉄の夢』1992 小学館文庫版など>
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書籍案内

ティエリー・ランツ
幸田礼雅訳
『ナポレオン3世』
1995 文庫クセジュ
白水社

鹿島茂
『怪帝ナポレオン3世』
2004 講談社学術文庫

マルクス/植村邦彦訳
『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』
2008 平凡社ライブラリ