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普仏戦争/プロイセン=フランス戦争/独仏戦争

1870年、プロイセン(普)とフランス(仏)の戦争。プロイセンが勝利しドイツ帝国を成立させる。フランスでは第二帝政が倒れ、パリ=コミューンを経て第三共和政に移行。

 1870年に起こった、プロイセン(普)・フランス(仏)の戦争であるのでプロイセン=フランス戦争というが、プロイセン以外のドイツ諸国も加わったので、ドイツ=フランス戦争、独仏戦争という場合もある。スペイン王位継承問題に端を発した両国の対立であるが、ナポレオン時代のフランスに復讐することでドイツ統一の主導権を握りろうとしたプロイセンのビスマルクがフランスのナポレオン3世を挑発して戦争に持ち込んだという側面が強い。結果としてプロイセン軍の大勝に終わり、翌71年、ドイツ帝国が成立した。またフランスでは第二帝政が倒れ、臨時政府が講和しようとしたことに反対したパリ市民・労働者がパリ=コミューンを樹立したが、鎮圧されて、ブルジョワ共和派による第三共和政に移行する。

戦争の口実と発端

スペイン王位継承問題 フランスの隣国では1868年のスペイン九月革命で王位が空位となった。プロイセンのビスマルクはプロイセン王家のホーエンツォレルン家の分家ジグマリンゲン家の王子レオポルト(カトリック信者だった)を説得し、スペインも了承して王位継承予定者となった。しかし、フランスのナポレオン3世は、スペインにプロイセンの勢力が及び、フランスを挟撃する体制にあることに強く反発しスペイン王位継承問題という国際問題化した。ナポレオン3世はプロイセン王ヴィルヘルム1世に働きかけてレオポルトを候補から降ろすことに一旦成功したが、さらに1870年7月、フランス大使をエムスに滞在中のヴィルヘルム1世のもとに派遣して、将来にわたってスペイン王位継承に介入しないことを約束させようとした。
エムス電報事件 1870年7月の会談はヴィルヘルム1世がフランスの申し出を拒否することで終わったが、その内容を知らせる電報を受け取ったビスマルクは、フランス大使がプロイセン王を恫喝したのに対して、ヴィルヘルム1世が毅然と拒否したように情報を操作して公表した。このエムス電報事件によってプロイセン国内に反フランスの声が盛り上がり、フランスでも反プロイセンの感情が強くなって、7月19日、ナポレオン3世はプロイセンに宣戦布告し戦争が始まった。

戦争の経過

 フランスとの戦争となって他のドイツ諸国(バイエルンなど)もプロイセン軍に加わり、全ドイツとフランスの戦争の様相となった。したがってこの戦争を独仏戦争という場合もある。戦争は、圧倒的に優勢な兵力と火器を有し、輸送と兵站(後方支援)の準備を終えていたプロイセン側がフランス領内に進撃し、9月1日スダンの戦いで、ナポレオン3世が8万3千の将兵と共に降伏し、退位して亡命、フランス第二帝政は崩壊した。

Episode 戦う前から決まっていた勝敗

 モルトケ将軍率いるプロイセン軍は総数50万、よく訓練され、装備・兵站とも完璧な精兵たちであった。対するにフランス軍はアルジェリアとローマに駐屯する部隊を入れても35万人、それを除外すれば、実働部隊はわずかに25万人。「また、フランス軍は紺の上着に赤いズボンという‘威嚇’理念に基づく派手な軍服だったから、簡単にプロシャ軍の標的となった。これに対し、黒の上着に褐色のズボンというプロシャ軍の軍服は銃弾からよく兵士たちを守った。武器の点から見ても、フランス軍のシャスポー銃はプロシャ軍のドゼ銃より射程が優れていたが、漢人の弾薬が決定的に不足していた。大砲も、フランス軍の先込め式ブロンズ砲では、プロシャ軍の元込め式のクルップ鋼鉄砲の敵ではなかった。」<鹿島茂『怪帝ナポレオン3世』2004 講談社学術文庫版 p.557-558>

戦争の結果

 スダンの戦いで皇帝が捕虜となったことを知ったパリ市民は暴動を起こして宮廷に乱入、第二帝政は崩壊し、臨時政府が成立した。パリに迫ったプロイセン軍は、翌1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿を占領し、そこでドイツ帝国の皇帝戴冠式を行い、その10日後にパリは開城した。2月26日、フランス臨時政府(行政長官ティエール)は、50億フランの賠償金と、アルザス・ロレーヌ(ロレーヌ地方には厳密にはその三分の一)を割譲する条件で講和した。勝ち誇ったプロイセンは、3月1日、パリに入城した。パリ市民は抗議の黒旗を窓に垂らした。フランス臨時政府の屈辱的な講和に反対したパリ市民は、パリ=コミューンを組織して、労働者政権を樹立する。しかし、臨時政府側とドイツ軍によって包囲され、5月に崩壊した。こうしてフランスはブルジョワ共和政の第三共和政となる。

普仏戦争と他のヨーロッパ諸国

 なお、普仏戦争に際し、イギリスのグラッドストン内閣は不介入の姿勢に終始し、ロシアのアレクサンドル2世はその隙に南下政策を再開させる。またフランス軍が敗れ、ローマ駐留軍(イタリア統一戦争からローマ教皇を守る名目でナポレオン3世が派遣していた)が撤退したため、イタリア王国軍がローマ教皇領占領し、イタリア統一が完成したのもこの結果である。