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ベルリン(コンゴ)会議(1884-85)

1884~5年、ビスマルクが主催した、アフリカ分割に関するヨーロッパ列強による国際会議。コンゴ地方へのベルギーの侵出に対応し、列強の利害を調停すること、またアフリカ分割及び植民地化の原則を取り決めることが話し合われた。結論としてベルギーのレオポルド2世の「コンゴ自由国」所有を承認した。また「アフリカ分割に関するベルリン条約」を締結して、コンゴ川流域などの自由貿易、奴隷貿易の禁止、アフリカ大陸沿岸部の占有権の条件などが取り決められた。

 1884年~85年、ドイツ首相ビスマルクの提唱で開催された、列強14カ国によるアフリカ分割に関する会議。ベルリン=コンゴ会議ともいい、特にベルギー国王レオポルド2世のコンゴ支配を承認するかどうかが主要な案件であった。参加14ヵ国とは、当時アフリカに野心を持っていた、イギリス・ドイツ・オーストリア・ベルギー・デンマーク・スペイン・アメリカ・フランス・イタリア・オランダ・ポルトガル・ロシア・スウェーデン・オスマン帝国。この中にはアフリカ人の代表は加わっていない。アフリカ人の参加していない「国際」会議でアフリカの分割が行われ、分割に当たっての「原則」が話し合われている。「当事者不在」の極致であるが、それを当然として問題と感じないのは、私たち自身が植民地支配をする側に立ってしまっていることになる。アフリカ人の視点からすれば、許されないことであろう。会議は100日間以上にわたって続き、レオポルド2世の要請した国王によるコンゴ支配も承認されたが、同様に紛争の地であったニジェール川流域のイギリスの権利も承認された。翌85年2月に全7章、38条からなるベルリン条約(コンゴ盆地条約の部分を含む)を締結して終了、そこではコンゴ川・ニジェール川流域の自由貿易などとともに、今後のアフリカ分割の「国際ルール」が取り決められた。
注意 同じくビスマルクの主催により、ベルリンで開催された会議である1878年ベルリン会議は、バルカン半島へのロシアの侵出をめぐって開催された国際会議。このベルリン会議と混同しないようにしよう。1884~5年の会議は「ベルリン・コンゴ会議」とか「西アフリカ会議」とも言われる。
PONT ベルリン(コンゴ)会議のポイント
  1. ビスマルクが「公正な仲買人」として列強間を調停したこと。
  2. ベルギー・レオポルド2世の「コンゴ自由国」所有が認められたこと。
  3. アフリカ分割の原則(実効支配と先取権)を定めたこと。
  4. アフリカ人が参加していない国際会議でアフリカ分割が行われたこと。

コンゴ自由国の承認

 会議はベルギー国王レオポルド2世が主権を主張したコンゴ川流域について、国王の個人的組織であるコンゴ国際協会が統治権をもつことを承認した。レオポルド2世はそれをコンゴ自由国と称し、国王の私領として統治することとなった。一方、ニジェール川河口地域についてはイギリスの統治権を認めた。「自由国」とは、自由貿易圏とするという意味で、イギリスがそう呼んだ。

ベルリン条約(コンゴ盆地条約)

 合意された協定の主要部分は次のとおりで、第1~5章のコンゴ盆地とその周辺に関する部分は「コンゴ盆地条約」ともいわれている。
  1. コンゴ盆地とコンゴ川河口、および周辺地域の貿易の自由。(第1章)
  2. この領域での奴隷貿易(取引)の禁止。(第2章)
  3. コンゴ盆地とその周辺領域の中立性。(第3章)
  4. コンゴ川の航行の自由。(第4章)
  5. ニジェール川の航行の自由。(第5章)
  6. アフリカ大陸沿岸部での新たな領有権が発生する条件(第6章)
第1章でコンゴ盆地は自由貿易とされているが、実際にはベルギーのレオポルド2世の私領「コンゴ自由国」の独占的な支配が行われた。「コンゴ自由国」は正式にはフランス語で「コンゴ独立国」を意味していたが、イギリスでは自由貿易地域であることを強調するため「自由国」と言い換えた。

アフリカ分割の原則の確認

 しかし最も重要なことは第6章において、アフリカ植民地化(アフリカ分割)の原則が合意されたことで、それは次のような2点からなる。
  1. 占領が認められる条件はヨーロッパ人の活動(通交・交易)を保障できる実効支配が行われていることが必要である。
  2. ある地域を最初に占領した国がその地域の領有権をもつという先占権をもつ。(沿岸部を占領した国が内陸部の併合も認められる)
 これは、アフリカ現地の人々の意志は関係なく、ヨーロッパ各国がアフリカの土地と人間を勝手に区画して統治できるという、一方的なものであり、このベルリン会議の結果としてヨーロッパ列強のアフリカ分割を加速させることとなった。列強は「早い者勝ち」に競って進出し、現地の黒人部族の首長との間で保護条約を締結し「実効支配」を打ち立てようとした。その後、20世紀中ごろまでアフリカは植民地支配を受け、多くのアフリカ諸国がこの分割にそって独立したため、現在も部族的な対立や国境紛争が絶えない、不安定要素の原因となっている。<小田英郎『アフリカ現代史Ⅲ』山川世界現代史15 1986 p.50 などによる>