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コンゴ自由国

ベルリン会議の結果、1885年にベルギーのレオポルド2世の個人領として成立。

コンゴ自由国
コンゴ自由国の黒人を苦しめるレオポルド2世(『パンチ』誌)
 アフリカ大陸の中央部、赤道直下にあたるコンゴ川流域の広大な熱帯性雨林の地域は、14~19世紀にコンゴ王国が栄えていた。15世紀にポルトガルが進出したが、16世紀に内陸部で激しい抵抗に遭い、その支配は海岸部にとどまった。

ベルリン会議

 19世紀になって新たにベルギーレオポルド2世が領有をこころみ、スタンリーなどに探検させ、内陸部に進出した。このベルギーのアフリカ進出は先行していた列強を刺激したため、1884~85年にビスマルクの調停におりベルリン会議が開催され、その結果、レオポルド2世の個人領として承認され、それを機にコンゴ自由国と改称した。

レオポルド2世の個人領

 レオポルド2世は、隣国オランダが、ジャワ島で強制栽培制度を実施し利益を得ていることに刺激を受け、コンゴ自由国を厳しく収奪し、特にゴムと象牙を現地人から取り上げ、自らの富としていった。コンゴ自由国の植民地支配はアフリカで最も残虐を極めたという。国際的な非難を受け、レオポルド2世はやむなく1908年にベルギー国家の殖民地「ベルギー領コンゴ」とすることに同意した。

国王の「個人領の国」とは

 このことはわかりにくいが、次のように説明されいる。
(引用)コンゴ自由国は奇妙な国家であった。レオポルド2世はベルギーとコンゴ自由国という二つの国家の元首を兼ねることになったが、立憲君主制をとるベルギーとは全く異なり、コンゴ自由国は彼の私有領としての性格をもっていた。彼はコンゴの「所有者」だと宣言し、1890年に公開された遺言状では、コンゴに対する「主権」をベルギーに遺贈すると述べている。王の所有物としての国家とは中世さながらの考え方であるが、コンゴ自由国は、ベルギー政府が何の責任も権限もない形で、1908年まで統治されることとなった。<『新書アフリカ史』竹内進一執筆分 1997 講談社現代新書 p.334>

Episode 「地獄の黙示録」のモデル『闇の奥』

 「ポーランド生まれのイギリス人作家コンラッドの『闇の奥』は、彼自身が1890年頃のコンゴ自由国を船員として訪問した経験に基づいて書かれている。鬱蒼としたジャングル、「文明」と隔絶したアフリカ人、そして現地に住むヨーロッパ人の傲慢・・・。この作品に流れている暗い狂気は、当時のコンゴ自由国の一側面をよく伝えている。」<同 p.334>
 白人にとって「闇の奥」であるザイール川の奥地で展開されいたのは、一握りの白人支配者が、黒人を何日もジャングルを歩かせてゴムと象牙を集め、量が少ないと激しい拷問を加えるという実態だった。この有様はイギリス人のモレルが1906年に『赤いゴム』という本で暴露し、スキャンダルとなった。その世論がベルギー政府を動かし、「コンゴ自由国」の消滅と政府によるベルギー領コンゴの植民地支配に転換させた。なお、コンラッドの『闇の奥』の場所をベトナムのジャングルに変えて、コッポラ監督が映画化したのが『地獄の黙示録』である。
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ノートの参照
第14章2節 ア.アフリカの植民地化