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レオポルド2世

19世紀後半のベルギー国王。アフリカにコンゴ自由国をつくって植民地支配を行った。

19世紀後半のベルギー国王(在位1865~1909)。ベルギーのアフリカ植民地支配の拡大に努め、アフリカのコンゴ地方に個人領コンゴ自由国を所有した。
 彼は隣国オランダがオランダ領東インド(インドネシア)経営で大きな成功を収めていることに刺激を受け、同じような植民地の獲得を目指した。1878年アメリカ人スタンリーを派遣してアフリカ中央部の広大なコンゴ地方を探検させ、植民地を獲得した。しかしベルギーの議会と世論はレオポルド王の行動に反対したため、レオポルド2世はコンゴを個人の私有地として所有することとなった。彼は自己の行動が個人的なものととられることを避けるために、1883年にコンゴ国際協会を設立してその保護下で開発を進めることとした。
注意 レオポルト2世は別人 ベルギー国王レイポルド2世は、神聖ローマ皇帝ハプスブルク家のレオポルト2世(マリー=アントワネットの兄。フランス革命に対してピルニッツ宣言を出した皇帝)と混同しないこと。両方とも Leopold だが、ベルギーでは(フランス語読みか)レオポルド、ドイツやオーストリアではレオポルト(ドイツ語では語尾のdはトと発音する)と表記する。

ベルリン会議

 このレオポルド2世のコンゴ進出は、すでにアフリカ分割を進めていたイギリス・フランスなどの利害と対立することとなって、コンゴ問題は国際的な紛争となった。そこで、ドイツ帝国の宰相ビスマルクが調停し、1884~85年のベルリン会議が開催された。この会議ではコンゴの領有を認められたレオポルド2世は、1885年には「コンゴ自由国」として独立国家の形態をとることとしたが、それはレオポルド2世を元首とする私有領の性格が強いものであった。

コンゴ自由国での不評

 レオポルド2世は、コンゴ自由国の首都にはレオポルドビル(現在のキンシャサ)と名付け、ゴムと象牙に目をつけて、現地人に過酷な労働と人頭税を賦課して収奪した。その無法な植民地支配は国際的な非難を浴びたため、1908年にはベルギーは正式にコンゴ自由国を併合し、「ベルギー領コンゴ」として管理することとなった。

Episode 悪人の国王と癇癪持ちの皇帝の会談

 ドイツ帝国のヴィルヘルム2世は、フランスと戦争になることを決意したが、先手を取ってフランスに侵攻するには中立国ベルギーを通過しなければならない。それは国際的に非難されることになるので、1904年に密かに国王レオポルド2世をベルリンに招き、「世にもやさしい態度で」彼を誘った。
(引用)長身で、黒いスペード型のヒゲをつけた堂々たるレオポルド2世は、情婦、金銭、コンゴでの残虐行為、その他いろいろのスキャンダルから生まれた悪人の風貌を身につけていた。オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ(1世)に言わせるとレオポルドは「真底から悪玉」だった。・・・数々の不徳のなかでも、ひときわ目立っていたのが貪欲さだったので、その貪欲さが常識をうち負かしてしまうだろうとカイゼル(ヴィルヘルム2世)は考えた。
 ヴィルヘルムはレオポルドに、その先祖のブルゴーニュ公の領地だったフランス西部のアルトワ、仏領フランドル、仏領アルデンヌなどをあわせてブルゴーニュ公国を再興してやろうと持ちかけた。あっけにとられたレオポルドは、15世紀の昔と違うから、閣僚と議会が同意しないだろう、と答えた。するとヴィルヘルムは持ち前の癇癪を起こし、国王たるもの、議会の言い分を聞くとは何事か、と叱りとばした。そして「ヨーロッパの戦争で、わしにつかないものは、みんな敵にまわしてやる」と言い放った。<バーバラ=タックマン/山室まりや訳『八月の砲声』1962 ちくま学芸文庫版 2004年刊 上 p.71-73>
 悪人の国王と癇癪持ちの皇帝の妙な会談だったが、案の定、ドイツ=ベルギー同盟は実現しなかった。その後もドイツはベルギーを軽視する風は改まらなかったが、レオポルド2世は1909年に死ぬと、彼とは似ても似つかぬ甥のアルベールが国王となった。第一次世界大戦がはじまり、ドイツがシュリーフェン計画にもとづいて、ベルギー侵攻を開始すると、国王アルベールは敢然と抵抗し、全土が占領されても降伏せず抵抗を続けた。
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ノートの参照
第14章2節 ア.アフリカの植民地化