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ムッソリーニ

イタリアのファシズム指導者。第一次世界大戦後ファシスト党を組織し、1922年に政権を獲得。1935年ヒトラーと提携し、枢軸国を形成、第二次世界大戦に参戦したが、形勢不利のうちにミラノで民衆に惨殺された。

ムッソリーニ Benito Mussolini 1883-1945
 第一次世界大戦前からイタリア社会党の党員として活動し、参戦を主張して除名された後に、反社会主義に転じ、ファシスト運動を組織し、1922年にはローマ進軍を機に政権を奪取し、独裁権力を行使した人物。イタリアを第二次世界大戦に導いただけでなく、ファシズムを創始した指導者の一人である。

イタリア社会党を除名される

 ムッソリーニはイタリア社会党の機関誌編集長であったが、1914年10月、公然と参戦論を唱え始めた。そのためただちに社会党から除名された。第一次世界大戦中は短期間従軍し、その後はミラノで自ら新聞「イル=ポポロ=ディタリア」を刊行、さらに1919年3月新しい運動組織「戦闘ファッシ」をミラノで結成した。その主張は、上院を廃止し労働者による立法権のある評議会を創設し、戦時利益を没収して農民に土地を分配するという労働者・農民寄りのものであった。一部のナショナリスト(国家主義者)、サンディカリスト(労働組合主義者)が参加したが、彼らは「戦争を信仰し議会制自由主義を憎む」点では共通していたが、その主張はイタリア社会党との違いがはっきりせず、民衆の支持を得ることはできず1919年11月の総選挙では惨敗した。

ファシスト党の結成

 1920年にムッソリーニは綱領から社会主義的な表現を一掃し、愛国心・戦争礼賛・偉大な国家イタリア、といった情緒的な表現を強め、反議会主義、反社会主義を鮮明にした。ムッソリーニの情緒的主張は、19年から20年にかけて盛り上がった社会主義者によるストライキで工場占拠などが相次いだことにつよい不安を抱いていたブルジョワ保守層の注目を集めることとなった。1920年末頃から、北イタリア各地に復員兵などによって「襲撃隊」と呼ばれる民兵祖組織が作られ、社会主義者に対する暴力的な敵対行為が開始されると、ムッソリーニは襲撃隊を傘下に収め、ファシスト運動を政党化し、1921年10月に「全国ファシスト党」を結成しその最高指導者となった。

ローマ進軍

 1922年10月28日には黒シャツに身を包んだファシスト党員4万人がローマ進軍を決行し、その中枢を占拠した。ムッソリーニ自身はミラノで事態を見守っていたが、ファシストを統制できるのはムッソリーニしかいないと判断した国王が彼をローマに召喚し、組閣を命じた。こうしてムッソリーニは政権を奪取することに成功した。そのときムッソリーニは39歳、イタリア史上最年少の首相となた。

新選挙法

 ムッソリーニははじめは表面的には憲法を遵守する姿勢を見せ、また他の政党からも閣僚を任命して連立内閣という形態として非難をかわしていたが、1923年には選挙法を改正し次第に独裁体制を強めていった。この選挙法は、選挙で最多得票し、かつそれが全投票数の4分の1以上であった政党に、自動的に議会の総議席の3分の2を与える、というものであった。この選挙法は、従来の比例代表制によって社会党議員の当選が多くなったと考えていたジョリッティやオルランドら自由主義の政治家の賛成も得て成立した。1924年4月にこの新選挙法での選挙が野党候補に対するファシストの暴力も公然と行われる中で実施され、その結果ファシスト党は66%を獲得し、自動的に議会の3分の2の議席を手に入れた。社会党、共産党、人民党(カトリック政党)は一桁台にとどまった。

ムッソリーニの独裁宣言

 1924年6月、ファシストによる暴力的な占拠干渉があったことを議会で告発した社会党のマッテオッティという議員が、ファシスト党員によって暗殺されるという事件が起こった。マスコミもムッソリーニが直接関与していた証拠を示して糾弾した。自由派の議員もムッソリーニ非難を強め、総辞職もやむを得ない状況となった。ムッソリーニも関与を否定するとファシスト襲撃隊の献身的支持を失う恐れがあるので、窮地に陥った。ファシスト襲撃隊の幹部は議会を解散して独裁制を敷け、さもなくば暴動をおこすと最後通牒をつきつけると、ムッソリーニは1925年1月3日に議会に出て演説し、「告訴するならせよ、ファシズムに罪があるならそれは私の責任である」と開き直って独裁制宣言を行った。それに対して国王も議会も沈黙し、ムッソリーニは危機を脱した。この1925年の1月3日がイタリアの議会制度が実質的に消滅した日となったといわれている。
 1926年までに反対する議員や官吏を徐々に辞任に追い込みながら、ムッソリーニ暗殺事件が相次いだことを理由に、すべての野党が廃止され、いかなる野党を創設することも禁止されてファシスト党一党独裁制が成立した。この年、イタリア共産党指導者のグラムシらも逮捕された。

Episode ドゥーチェ信仰のあれこれ

 ムッソリーニの独裁体制が成立すると、彼はドゥーチェ(統領)といわれ、本人の意思とは関係なく神格化する動きが始まった。ムッソリーニの愛人マルゲリータ=サルファッティはムッソリーニの伝記を書き、彼を古代ローマの司令官ダックスの再臨であると持ち上げた。
(引用)1930年代には、この「ドゥーチェ信仰」が最高潮に達する。ムッソリーニの命令調の警句がいたる所にペンキで書かれた――いわく、「信じるべし、従うべし、戦うべし」、「危険な生き方をせよ」あるいは、「羊として100年生きるよりも、ライオンとして一日生きる方がよい」と。それらの警句に並んで、「ムッソリーニはつねに正しい」といったようなスローガンも、いたる所で見られた。ジャーナリストたちは、ムッソリーニの行動と演説を賛美する記事を書くことを強制され、ムッソリーニに対する拍手は、かならず「いつ果てるとも知れぬ」、「熱狂的な」、「万雷の」拍手と書かなければならなかった。・・・ファシスト党の書記長をつとめたアキッレ=スタラーチェという人物は、頭はよくないが党には忠実な男だった。この人物の「ドゥーチェ信仰」は異常と思われるほどで、「ファシスト党の幹部は、ドゥーチェと電話で話すとき、直立不動の姿勢をとらなければならない」という規則を作った。・・・<ダカン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.312>

ファシズム政権

 その後1924年にフィウメを併合し、1926年にはアルバニア保護国化などを実現して権威を高め、勢力を拡大した。1929年にはローマ教皇ラテラノ条約を締結してヴァチカン市国を承認し、ローマ=カトリック教会との関係を修復した。1929年の世界恐慌によってイタリア経済も大きな打撃を受け、ムッソリーニはエチオピア侵攻を実行して国民の目をそらそうとし、またドイツのヒトラー・ナチスとも提携するようになった。1934年には第2回のワールドカップをイタリアで開催し、サッカー人気に便乗してムッソリーニの人気を高めた。その影響を受けて、36年にはヒトラーがベルリン=オリンピックを開催した。この両者はスポーツの政治利用でも共通していたといえる。

ベルリン=ローマ枢軸

 さらにムッソリーニは1935年にエチオピア併合(エチオピア戦争)を強行した。エチオピアは国際連盟加盟の独立国で会ったから、国際連盟はイタリアン侵略行為を厳しく非難し、経済制裁を決議した。同年にはスペイン戦争が始まると、ムッソリーニはフランコ反乱軍に対する軍事支援を表明、陸軍、空軍を派遣した。これらのムッソリーニの姿勢によってイタリアはイギリス・フランスと対立することとになったので、ヒトラーのドイツとの提携を強めた。当初、ムッソリーニのイタリアはオーストリア方面への進出を考えていたので、同じくオー津トリア併合を狙うヒトラーとは対立関係にあった。それが、エチオピア戦争を機にドイツとの協調に変化し、それがスペイン戦争で両国が同じく反乱を支援したことで急速に近づき、同年10月、ベルリン=ローマ枢軸を成立させた。この言葉はムッソリーニが提唱したとされる。さらに翌37年11月には日独防共協定に加盟し、日独伊三国防共協定に発展、この三国は第二次世界大戦で「枢軸国」として同盟することとなった。
 1938年にはナチス=ドイツのズデーテン地方割譲要求についてのミュンヘン会談に参加し、英仏の宥和政策を目の当たりにしてドイツとの提携を深めた。会談後わずか6ヶ月でヒトラーがチェコスロヴァキアを占領分割すると、ムッソリーニはかねて狙っていたアルバニア併合を強行した。しかしこのドイツ・イタリアの行動は、イギリス・フランスを宥和政策から転換させることとなった。

第二次世界大戦への参戦

 1939年9月、ヒトラー=ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まると、ムッソリーニは当初は「非交戦国」を宣言し初めは中立の立場をとったが、ドイツの優勢が明らかになった40年6月に参戦した。しかし、北アフリカ戦線などでイタリア軍は次々と敗北すると、国内ではムッソリーニ独裁に反発する動きが強まっていった。1943年7月に連合軍がシチリアに上陸すると、イタリア軍はほとんど抵抗できず、連合軍はローマに迫った。

ムッソリーニの失脚と最後

 ファシズム代表議会はムッソリーニを政権から排除することを決議し国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ3世も異議を挟まなかった。国王に呼ばれたムッソリーニは逮捕され、そのまま幽閉された。しかし替わったバドリオ内閣は有利な条件で講和しようと時間を稼ぐ間に、ドイツ軍は一挙にイタリアに展開してローマを占領、さらに幽閉されていたムッソリーニはドイツ軍に救出され、北部のガルダ湖畔で独立政権を樹立した。これをサロ共和国といい、南部のプリンディシに移ったイタリア王国に対抗することになった。しかし、ムッソリーニは傀儡でしかなく、しかも病気が進行し、実権はドイツ軍が握っていた。北イタリア各地ではファシスト政権時代に獄中にあった共産党員が解放され、パルチザン闘争を開始、激しいイタリア解放の戦いを展開した。1945年4月、パルチザンに捕らえられ、ミラノ市民の前に引き出されて愛人とともに逆さ吊りにされて殺された。

Episode 愛人とともに逆さづりになったムッソリーニ

ムッソリーニの処刑
ミラノで処刑されたムッソリーニ(左から4人目)と愛人クラレッタ(その右)
ダカン『イタリア史』創土社 p.338より
(引用)当時ムッソリーニは病気だった。しかも政権の中で孤立して何の権限もなく、ナチの容赦ない要求に従わざるを得なかった。ムッソリーニの愛娘エッダも、すでに父を見捨てて去っていた。エッダの夫チアーノ男爵が、7月24日のファシスト大評議会で反ムッソリーニ票を投じたので、ムッソリーニがチアーノの処刑を命じたからである。こうした事情を思えば、1945年4月、パルチザンたちがアルプスの北へ逃亡しようとしたムッソリーニと愛人のクラレッタ・ペタッチを捕らえて銃殺したことは、正義の裁きであり、またムッソリーニを苦しみから解放したとも言える。<ダカン『イタリアの歴史』2005 ケンブリッジ版世界各国史 創土社 p.337>
 ムッソリーニと愛人のクラレッタは、4月29日、ミラノのロレート広場のガソリンスタンドで、処刑された他のファシストとともに逆さ吊りにされた。その生々しい写真が残されている。<ダカン・同上書 p.313>
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ノートの参照
第15章2節 エ.イタリアのファシズム
第15章5節 ウ.独ソ戦と太平洋戦争
第15章5節 エ.ファシズム諸国の敗北
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ダカン
『イタリアの歴史』
ケンブリッジ版世界各国史
2005 創土社