印刷 | 通常画面に戻る |

突撃隊/SA

ナチ党の軍事組織。SA。テロ組織として発足したが、次第に国防軍と対立し、ヒトラーの統制も受けなくなったため、1934年6月、その責任者レーム以下が粛清された。

 ヒトラー国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の指導者として主導権を握ると、1921年に突撃隊(SA、エスアー)を組織し、ナチ党の集会の警備や護衛、反対党の襲撃などの実行部隊とした。その責任者には盟友の<レームを任命した。その隊員には、第一次世界大戦から復員した若い下士官クラスが多く、仕事がなく、現状への不満を募らせており、ナチ党のヴェルサイユ体制打倒や、議会政治・政党政治の否定、ドイツ人の優越とその逆のユダヤ人排斥などの主張をたやすく受けいる素地があった。
 ナチ党にはもう一つの実行部隊として親衛隊(SS)が1923年に組織され、幹部の身辺警護にあたっていたが、次第に突撃隊(SA)との対立関係が鮮明になっていった。
 突撃隊は、本当の意味でヒトラーのテロ道具だった。最初の強制収容所は突撃隊によって設置、管理され、その際に突撃隊は独自のテロ性向を育て上げた。「突撃隊は上からの命令で逮捕を行っただけでなく、随意に自分勝手に、とりわけ個人的な恨みでも逮捕を行った。きわめて多くの虐待や少なからぬ殺害と並行して現れたテロ政体は、部分的にはヒトラーの手に負えなくなっていた。」

国防軍との反目

 この第一次世界大戦前の旧下級士官の指揮下にある大衆組織であった突撃隊が、自ら新帝国の新しいナチス軍隊になろうとし、国防軍指導部の権力を奪い、その一部を自己の中に吸収しようとした。ヒトラーは突撃隊最高指導者(OSAF)であったにもかかわらず、国防軍に味方した。その理由の一つは、ヒトラーは国防軍の大軍備を必要としていたことであり、もう一つは彼がヒンデンブルク大統領の後継者となり、首相と大統領の職を合体させることを考えていたので、国家元首として国防軍の最高司令官になる必要があったからである。一方、突撃隊の中には、ヒトラーがヒンデンブルク死後に突撃隊を主体とした第二革命を実行することを期待していた。

突撃隊の粛清

 このディレンマの逃げ道として、ヒトラーは突撃隊指導者たちを殺害することを決意し、1934年6月30日に実行した。ヒトラーは彼らを逮捕し、射殺した。後に幕僚長レームらが一揆を計画していたことを理由としたので「レーム一揆」と言われたが、そのような一揆計画は皆無だった。
 この事件は数日後に内閣によって、国家正当防衛として承認され、国民は嫌われ者であった突撃隊をヒトラーが退治した、とある種の満足感と安堵の念を与え、好意的に受け取ったが、これが1938年から45年にかけてドイツ中を襲う血なまぐさいテロ支配の予兆であった。  国防軍もヒトラーを支持し、予定通り、ヒンデンブルク大統領死後にヒトラーを後継者と認め、忠誠を誓った。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.221-225>

突撃隊(SA)の粛清/長いナイフの夜

1934年6月30日、ナチ党の路線対立から、ヒトラーがレームら突撃隊幹部を粛清した事件。関わりのある人物が多数殺害され、ヒトラーの独裁的権力集中の契機となった。

エルンスト=レーム レーム(1887~1934)はずんぐりした小男で、第一次世界大戦中に三度負傷し、鼻の半分は弾丸でもぎ取られ、頬にも傷痕が残っていた。職業軍人であったが気性が激しく、無頼の徒でもあった彼は「おれは悪人だから」「平和よりも戦争の方が性に合う」と言いふらしていた。ナチ党の前身、ドイツ労働者党を「国家社会主義ドイツ労働者党」に仕立てたのはこの男であり、共産主義者との市街戦を戦う褐色シャツの突撃隊(SA)の創設者でもあった。ヒトラーとは俺・お前と呼び合う15年間に及ぶ親友同士であった。
レームとヒトラーの対立 レームやグレゴール=シュトラッサーなど古参のナチ党員は、社会主義はインターナショナルなものであるはずで「国家社会主義」というヒトラーの路線は矛盾していると考えるようになり、「第二革命」が必要であると主張するようになった。またレームは突撃隊をドイツ国防軍に編入させることを要求した。しかし、国防軍は突撃隊を無頼の徒としてしか見ていなかったので、強く拒絶していた。総統であるヒトラーは、国防軍の協力を得なければ政権を維持できないことを確信していたので、第二革命など忘れ、SAを解散させるようレームの説得を試みた。しかしレームはヒトラーの言葉に耳を貸さない。ヒトラーはゲッベルス親衛隊(SS)隊長ヒムラー、ゲシュタポ長官ゲーリングらを味方に引き入れて、レームとその一派を粛清することを決意した。

長いナイフの夜

 1934年6月30日、ヒトラーはバイエルンのヴィースゼーのサナトリウムに滞在していたレームのもとに赴き、部屋で寝ていたたレームを起こし、逮捕した。牢に入れられたレームに拳銃が与えられ、ヒトラーが10分以内に自殺することを望んでいると告げられた。レームは拳銃の使用を拒否し、「この卑劣な仕事はアドルフが自分でやるべきだ」と言った。10分が過ぎ、独房の扉が開いて外から雨あられのように銃弾が撃ち込まれ、レームは射殺された。
 そのころSA幹部150名がベルリンでゲーリングによって逮捕され、士官学校倉庫に監禁され、射殺された。理由も知らされず射殺された彼らの多くは「ハイル・ヒトラー!」と叫びながら死んでいった。
 1934年6月30日の恐るべき血の粛清で、どれだけ多くの人間が殺されたか、正確なところはだれにもわからない。ベルリン以外の諸都市でも犠牲者が出た。ヒトラーに忠実だった一部のナチ党幹部は、この日の混乱に乗じて私敵を除いた。ゲーリングは六人の暗殺者を送って別荘にいた前首相クルト・フォン・シュライヒャーを夫人共々殺害した。グレゴール・シュトラッサーも獄中で殺された。ゲーリングにとってこの二人は怨み重なる敵だった。また11年前、ミュンヘンのヒトラーのビアホール一揆(ミュンヘン一揆)を粉砕したグスタフ・フォン・カールは自宅から引きずり出され、数日後にその死体が沼地で発見された。同姓同名で間違えられ殺された人もいた。このヒトラーによる大量粛清は「長いナイフの夜」として記憶されている。
(引用)「あの時の数時間は」と、ヒトラーは語った。「わたしがドイツ国民の最高審判者であった」。このぞっとするような死体の山を踏み台にして、ヒトラーは最高権力への道を登った。大虐殺が終わった時、ヒトラーは自分の党のみならず全ドイツの支配者となっていた。もはや何びともあえて彼に挑戦する勇気を持たなかった。「ドイツでは今後革命が起こらないだろう」と、ヒトラーは豪語した。<スナイダー/永井淳訳『アドルフ・ヒトラー』1970 角川文庫 p.71>
印 刷
印刷画面へ
ノートの参照
第15章4節 エ.ナチス=ドイツとヴェルサイユ体制の破壊
書籍案内

セバスティアン・ハフナー/山田義顕訳
『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』
1989 平凡社

スナイダー/永井淳訳
『アドルフ・ヒトラー』
1970 角川文庫