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人権外交

アメリカのカーター大統領が掲げた外交の基本目標。ソ連や開発独裁支配下の新興国における人権抑圧を批判した。

カーター大統領(1977年就任)が提唱したアメリカ外交の基本姿勢。かつてのウィルソン大統領がアメリカの民主主義の理念を広めることを提唱した「宣教師外交」を再現したと言える。両者とも熱心なキリスト教徒(プロテスタント)であった。具体的にはソ連の反体制派弾圧や南アフリカ共和国のアパルトヘイトを厳しく非難し、アルゼンチン、ウルグアイ、エチオピアなど人権抑圧のある国家には経済的軍事的援助を停止した。
 人権外交の理念はその後のアメリカ大統領にも継承されており、特に冷戦終結後は「共産主義との対決」という大義名分が消滅したため、それにかわる他国への介入のアメリカの「言い分」となっている。中国に対する人権抑圧非難は中国の反発を受け、米中関係を一時悪化させた。また中東アラブ諸国やラテン=アメリカ諸国への介入の名分も「人権擁護」であった。それに対してアジアやラテン=アメリカ地域では歴史的価値観の違いを無視した押しつけ介入として反発している。 → アメリカの外交政策

Episode カーター人権外交の限界

 1977年12月、カーター大統領はイランを訪れた際に、イランこそが中東における「安定した島」であると述べ、国王パフレヴィー2世を讃えた。この発言は、人権外交を掲げたカーターが、同盟国における人権抑圧に対しては、いかに無関心であったかを明らかにしていた。この訪問から数ヶ月後、国王に夜人権抑圧に対するイラン国民の不満が爆発し、イラン革命が勃発する。パフレヴィー2世は末期癌を患っており、カーターは彼をニューヨークの病院に入院させることを許可した。その10日ほど後にテヘランで国王の送還を要求したイラン人がアメリカ大使館人質事件が起き、結局カーターはその処置を誤って人気が急落することとなる。<西崎文子『アメリカ外交とは何か -歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.185-186>
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ノートの参照
第16章4節 イ.米ソ両両大国の動揺
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西崎文子
『アメリカ外交とは何か
-歴史のなかの自画像』
2004 岩波新書