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アメリカの外交政策

18世紀末に独立してから伝統的に孤立主義を採りながら、19世紀末に世界の大国となってから、帝国主義的介入を展開、第二次世界大戦後は世界的覇権を握った。20世紀末の冷戦終結からその力は大きく揺らぎながら、現在もなお強大な影響力を有している。

アメリカ外交姿勢の概観

 近代世界最初の民主主義国家であったアメリカ合衆国は、1774年の建国当時のワシントンジェファソン以来、孤立主義といわれ、ヨーロッパの君主国家とは一線を画して、ヨーロッパ諸国の戦争に対しては中立策をとっていた。それは1823年のモンロー教書によって明確にされたのでモンロー主義とも言われ、以後のアメリカ合衆国の外交姿勢の基本となった。
 19世紀末にはアメリカは世界の大国となると、ヨーロッパへの不介入という孤立主義を維持しながら、ラテンアメリカさらに太平洋方面に進出し、1898年の米西戦争でフィリピンなどを殖民地として所有する帝国主義国家となった(アメリカ帝国主義)。孤立主義を守ることを公約し、ヨーロッパ列強の対立から中立を守っていたウィルソン大統領であったが、ドイツの侵略的な軍事行動がつよまると、途中から民主主義の擁護の立場から第一次世界大戦に参戦し、孤立主義を転換させて国際協調を提唱して戦後国際社会のリーダーをめざした。しかし、議会の反対で国際連盟に加盟できず、戦後は孤立主義に戻ってしまった。戦間期には孤立主義の時期であったが、世界の最強国という立場となったアメリカのはドイツ賠償問題の解決、不戦条約、海軍軍縮などでは国際協調の重要な役割を担うこととなった。しかし孤立主義の基本姿勢は世界恐慌後に始まった30年代のファシズムの台頭などのヨーロッパが強まるとかえって強化され、1935年に中立法を制定した。
 こうして第二次世界大戦の勃発に対しても当初は参戦しなかったが、ファシズムの脅威が強まる中、F=ローズヴェルト大統領はイギリス・ソ連との連合国結成に動き、日本の真珠湾攻撃を受けて第二次大戦への参戦、再び世界戦争に直面して孤立主義を放棄した。以後、アメリカ合衆国は現在まで孤立主義をとることはなくなっており、逆にファシズムや共産化の脅威から世界を守り、「自由主義・民主主義」といったアメリカの理念を世界に拡大していくという、ウィルソン的な理念型の外交姿勢が目立つようになる。大戦後はアメリカは国際連合を中心とした国際協調の中で重要な役割を果たすこととなったが、社会主義国ソ連の東欧での進出を受けて関係が悪化して東西冷戦期となると、資本主義陣営の盟主として、厳しくソ連陣営と対立し朝鮮戦争・ベトナム戦争などに積極的に関わった。
 しかし、1970年代には冷戦の枠組みが変化し、アメリカもドル=ショック(ドル危機)にみまわれ反戦運動が激化し、中国との国交回復など大きな転換を余儀なくされ、資本主義陣営でもアメリカの一極支配は終わり、西欧と日本との三極構造に転換した。さらにオイル=ショックが世界経済のあり方を大きく変化させることになり、アメリカの主導権は失われ、世界経済は先進国首脳会議(サミット)を最終調整の場とするようになった。  1989年の東欧革命から一気に冷戦の終結に進み、ソ連の崩壊した1990年代以降は、各地で民族紛争、宗教対立が吹き出すこととなった。国際連合とアメリカの関係はからずしも良好ではなくなり、アメリカの中に国連の枠組みの中で行動するより、単独で軍事行動を展開する傾向が強くなり、孤立主義に代わる、単独行動主義(ユニラテラリズム)の台頭として懸念されている。
 以上、アメリカ合衆国の外交政策の推移の素描であるが、各時期を補足すると次のようになろう。
 (1)アメリカ外交の孤立主義  (2)アメリカ帝国主義  (3)戦間期のアメリカ外交  (4)冷戦とアメリカ外交  (5)アメリカ外交の多面化  (6)冷戦終結後のアメリカ外交  

(1)アメリカ外交の孤立主義

孤立主義の源泉

 アメリカ合衆国初代大統領ワシントンは離任に際しての告別演説で「世界のいずれの国家とも永久的同盟を結ばずにいくことこそ、われわれの真の国策である」と述べている。これはアメリカ外交における孤立主義の源泉とされているが、正確に言えば非同盟主義である。近代世界最初の共和制国家として独立したアメリカ合衆国が、新興の弱小国として「旧世界」ヨーロッパ君主国の権謀術数に巻き込まれないようにする叡知であり、外交よりも内政を重視する姿勢であった。
 この姿勢は1800年に大統領となったジェファソンによって外交路線として定着した。彼は国内発展に先進して1803年にフランスからルイジアナを購入し、国土を独立時から一挙に倍となり、アメリカの大国化の基礎が出来上がった。

米英戦争

 ヨーロッパでナポレオン戦争が激化してもアメリカ合衆国は既定路線どおり、中立策を維持していた。しかし、1806年、ナポレオンが大陸封鎖令を出し、イギリスもそれに対抗してアメリカとフランスの貿易を妨害するようになると、中立政策を維持することは困難となった。議会内には戦争に乗じて西部進出の障害となっているインディアンとイギリスの同盟を断ち切り、あわよくば英領カナダ進出などを目論む好戦派(タカ派)が台頭、1812年にイギリスに対して宣戦布告して米英戦争に踏み切った。この戦争ではアメリカはカナダに侵攻するなど膨張的であったが、かえって首都をイギリス軍に占領されるなど苦戦し、南部でジャクソン将軍が一矢を報いただけで痛み分けで終了した。

モンロー教書

 ウィーン体制下のヨーロッパでロシアを中心とした君主国による神聖同盟が結成され、さらにメッテルニヒがラテンアメリカの独立運動に干渉してくると、1823年モンロー大統領はモンロー教書を発表してヨーロッパへの不介入を宣言した。これは孤立主義の路線を継承した面もあるが、さらに一歩進めて西半球からヨーロッパ諸国の勢力を排除し、合衆国の覇権を確立するねらいが付け加えられたものであった。モンロー主義は対ヨーロッパでは孤立主義であるが南北アメリカ大陸に対しては覇権主義的な二面性を持っていた。19世紀の前半はジャクソン大統領の時代に西部開拓が進むとともに、ジャクソン=デモクラシーといわれるアメリカの民主主義が定着ししていった。

(2)アメリカ帝国主義の外交

帝国主義期の外交

 南北戦争を経て、アメリカ合衆国は政治体制・経済体制において北部工業地帯主導のナショナリズムが形成された。そして1890年代にフロンティアの消滅、さらに1894年にはアメリカの工業力がイギリスを抜いて世界一となると、孤立主義外交路線は変質し、ラテンアメリカ・太平洋方面への膨張的な動きが強まった。このアメリカ帝国主義が明確に現れたのが、共和党マッキンリー大統領の時の1898年、米西戦争であった。その勝利によってキューバの保護国化、フィリピン領有をはかり、かつて殖民地であったアメリカが殖民地をもつ国となり、大国となった(もっともまだ国民的なレベルでは大国意識は成立していない)。翌99年には、列強の中国分割に後れをとっていたため、国務長官ヘイの名で、中国の門戸開放宣言を発した。 → 帝国主義  帝国
棍棒外交 アメリカのカリブ海政策は、さらにT=ローズヴェルト大統領(在職1901~1909)のもとで積極化された。彼は中米地域に対して棍棒外交といわれる強圧的な進出を図り、キューバを保護国化し、パナマ共和国を強引に独立させ、パナマ運河の権利を獲得するなどラテンアメリカ地域を「わが庭」とする姿勢をとった。このようなモンロー主義の拡大解釈は「ローヴェルトの系論」といわれた。
対日外交の変質 またアジア進出を意図して1905年に日露戦争の仲裁を行い、桂=タフト協定で日本の朝鮮半島支配とアメリカのフィリピンの領有を相互に承認させた。しかし、日本の満州進出が明確になると、アメリカは次第に日本を警戒するようになり、翌年には日本人移民排斥運動が西海岸で激しくなった。1908年の高平ールート協約で沈静化を図ったが、アジアをめぐる日米の対立という新たな対立軸が生じた。
宣教師外交 1913年に就任した民主党ウィルソン大統領はラテンアメリカに対しては民主主義を育成するという姿勢に転じ、メキシコ革命に介入したが、その宣教師外交といわれるアメリカの理念を他国に押しつける外交は失敗した。これは、後のアメリカのベトナム戦争の失敗や、現在のイラク問題の混迷などの先例として見ることが出来る。

第一次世界大戦とアメリカ外交

 1914年6月、第一次世界大戦が勃発したが、世論や議会はヨーロッパの戦争にアメリカの青年の血を流すべきでないという声が強く、ウィルソン大統領も当初は中立を守った。しかしが、英仏が敗北すれば債権の回収が困難になることを恐れ、経済支援を強めていった。直接的にはドイツ軍の無制限潜水艦作戦によってアメリカ人にも被害がでたことを受け、大戦末期の1917年4月に第一次世界大戦に参戦した。これはアメリカ伝統の外交政策である孤立主義を放棄したことを意味している。ウィルソンは参戦するにあたって、その大義を、「専制政治に対する民主主義の戦い」と表明し、同時に秘密軍事同盟や領土や賠償金を戦争目的とするそれまでの大陸諸国の外交原則を非難した。
 また同年、ロシア革命が起こって社会主義政権が登場し、11月にレーニンが「平和についての布告」で無賠償・無併合・民族自決による即時講和や秘密外交の禁止を提唱したことに対する対抗もあって、ウィルソンは戦後国際社会の主導権を握るため、18年1月に14カ条の原則を提示し、秘密条約の禁止、民族自決とともに国際連盟の設立など、従来のヨーロッパ列強間の勢力均衡論による平和の維持に代わり、集団安全保障による平和維持の理念を提唱した
 第一次世界大戦中の1915年、日本は中国に対して二十一カ条の要求で山東半島や南満州に大きな利権を獲得した。それに対してアメリカは批判的態度であったが、大戦中は日本に対する圧力を加えることはなく、大戦後の国際協調路線の中で日本を孤立化させ、山東半島については中国に返還させることに成功した(ワシントン会議)。また、大戦末期にロシア革命が起きると、イギリス・フランス・日本と共に1918年、チェコ兵捕虜の救出を口実にシベリア出兵を行った。ウィルソンはロシア革命には同情的であったが、日本の大陸進出を牽制する意味もあって共同出兵に踏み切った。

(3)戦間期のアメリカ外交 孤立か協調か

ウィルソン外交

 パリ講和会議では敗戦国に対する賠償金請求や領土併合を極力抑えようとしたが、その意図は実現せず、英仏の主張するドイツに対する苛酷な戦後処理が行われることとなり、ウィルソンの新外交原則は実現せず、旧外交原則が復活してしまった。ヴェルサイユ条約に盛り込まれた国際連盟の設立は実現したが、アメリカ議会は孤立主義の原則の維持が大勢を占め、その批准を拒んだため、結局アメリカは国際連盟に加盟せず、戦後の集団安全保障体制は不完全なものとして出発しなければならなかった。ウィルソンの提言は完全には生かされなかったが、人類最初の国際協調機関である国際連盟が発足したことは意義深いものがある。

国際協調か孤立主義か

 二つの大戦の間、戦間期のアメリカ合衆国の外交政策は国際協調主義と孤立主義のせめぎあいという状況が続いた。議会の保守勢力(共和党)の中には孤立主義が根強く、国際連盟には加盟しなかったが、第一次世界大戦を機に債権国に転じたアメリカは1920年代に共和党政権の下で「永遠の繁栄」といわれる経済繁栄を謳歌することとなり、ドーズ案によるドイツ賠償問題の解決やハーディング大統領によるワシントン会議での海軍軍縮や中国・太平洋方面での調停、ケロッグ国務大臣による不戦条約の締結など、国際協調にも役割を果たすこととなった。この時期のアメリカ社会の中の国内政治優先の傾向は、1924年に制定された移民法で、移民を厳しく制限したことなどに現れている。
ワシントン体制   すでに1914年にパナマ運河が開通し、アメリカの世界戦略は太平洋、中国大陸が視野に入っていた。第一次世界大戦後は中国を潜在的市場と考えるようになり、そこでは日本との利害対立が明確になっていった。また、大戦前の海軍大国イギリスに替わって、アメリカと日本が急速に海軍力を拡大し、新たな建艦競争は戦争の再発の不安増大と経済圧迫要因となっていった。その解消を図るためにアメリカは1920年代には国際協調という理念の下で海軍軍縮と中国・太平洋問題の解決を図りワシントン会議を主催、巧みな外交で日本を押さえ込むことに成功した。九カ国条約では山東半島の利権を返還させ、四カ国条約では日英同盟を破棄させることに成功した。ここで創り出されたアメリカの優位なアジアの国際秩序はワシントン体制と言われる。
孤立主義の変質 つぎの斉藤孝の説明のように、伝統的なヨーロッパからの干渉からアメリカを隔離するための隔離的孤立主義から、第一次世界大戦を転機として、アメリカの優越的立場を守るための優越的孤立主義に変質したと捉えることが出来るであろう。
(引用)アメリカ上院によるヴェルサイユ条約の批准拒否に続いて、1920年の大統領選挙において共和党のハーディングが勝利をおさめ、以後のアメリカは孤立主義をその外交方針として掲げた。しかし、第一次世界大戦後の世界の覇権を握り、優越した国際的地位の上に立ったアメリカの孤立主義は、ヨーロッパから自己を隔離する伝統的な孤立主義ではあり得なかった。それは、むしろ条約上の束縛を離れて行動の自由を確保しようとする優越的地位の自認であり、その必要とする限りでの対外干渉と両立するものであった。1920年代にはアメリカの外交政策はむしろ積極化するのである。<斉藤孝『戦間期国際政治史』1978 岩波全書 p.95>

世界恐慌とファシズムの台頭

 しかし、1929年に世界恐慌が起こると、フーヴァー大統領はアメリカ経済の破綻から始まった問題であったにもかかわらず対応に後れをとり、フーヴァー=モラトリアムでの賠償金の1年間支払い停止も効果なく、世界は急速にブロック経済化へと突き進んでいった。
 こうして資本主義経済の矛盾は、帝国主義の第二段階とも言うべき領土拡張、植民地拡大へと突入させていった。とくに、ヴェルサイユ体制・ワシントン体制に不満を強めていたドイツ・イタリア・日本にファシズムが台頭し、国際連盟を中心とする国際協調はもろくも破綻していった。
ニューディールと善隣外交 ファシズム国家の軍事的膨張が明確な脅威となる中で、民主党F=ローズヴェルト大統領は1933年からニューディール政策による経済立て直しに着手し、外交面ではラテンアメリカ地域に対する従来の強圧的な外交から善隣外交に転換しした。これは、ドイツ・日本との戦争に備えてラテンアメリカを自陣に引き留めておく必要から出されたと言える。1934年には議会でフィリピン独立法が成立し、10年後のフィリピンの独立を認めた。
 F=ローズヴェルトはソ連を承認するなど協調的な姿勢も示したが、英仏と独伊の対立、その背後にあるソ連の脅威など緊迫するヨーロッパ情勢に対しては1935年に中立法を制定して孤立主義の原則に立ち返った。

第二次世界大戦 孤立主義の放棄

 1939年、第二次世界大戦が勃発してもアメリカは参戦しなかったが、次第にファシズムの脅威が明らかになり、またアジア・太平洋方面では日本の進出がアメリカの利権を脅かすようになってくると、国内でも参戦の声も強まった。F=ローズヴェルトは1941年3月、武器貸与法を制定してイギリス支援に踏み切り、さらに独ソ戦の開始を受けて8月にチャーチル英首相との間で大西洋憲章を発表し、ファシズムに対する自由と民主主義の戦いという戦争目的を明らかにし、さらに戦後の国際平和維持機構の設立などで合意した上で参戦の機会を待ち、同年12月の日本軍の真珠湾攻撃を受けて第二次世界大戦への参戦に踏み切った。こうしてアメリカは孤立主義を放棄し、国際協調主義に転換した
冷戦の萌芽 またスターリン体制下のソ連とも体制の違いを超えて対ファシズム戦争という目的で一致し、大戦中からたびたび首脳会談を重ねて国際連合の設立など基本的な戦後国際社会の枠組みで合意した。ヨーロッパ戦線、太平洋戦線で多大な兵力を投入して戦争を勝利に導いたが、戦後国際社会の主導権をめぐる米ソの対立は大戦中から始まっており、トルーマン大統領はアメリカが広島・長崎で人類最初の原子爆弾の使用に踏み切った背景でもあった。

(4)冷戦とアメリカ外交

冷戦前期(50~60年代)のアメリカ外交

 アメリカ合衆国は戦後においても国際連合の中心となり、またブレトンウッズ体制で国際経済の復興をを支える役割を担うなど、国際協調主義の立場に立った。二つの世界大戦という大きな犠牲を払って到達した、集団安全保障という理念を現実のものとしたといえる。しかし、社会主義陣営ソ連との対立はまもなく表面化し、戦後は東西冷戦構造の中で、アメリカは自由主義・民主主義陣営の盟主をもって任じ、トルーマン=ドクトリンによって東側に対する封じ込め政策が提唱され、マーシャル=プランによって西欧諸国の経済支援を行ってその共産化を防いだ。また北大西洋条約機構(NATO)を初めとする軍事同盟関係の網の目を広げ、集団安全保障の理念は現実から離れることとなった。こうしてソ連との激しい核開発競争が始まったが、東西両陣営の対立は東アジアでまず火を吹いた。

朝鮮戦争

 アメリカの支援した蒋介石が国共内戦で敗れ、共産党政権が1949年に中華人民共和国を成立させると、アメリカは東アジアの共産化の危機ととらえ、翌1950年、朝鮮戦争が勃発すると国連軍としての出兵した。そのために日本との軍事協力を必要としたアメリカは日本に対して再軍備を指示するとともに、1951年にはサンフランシスコ平和条約で占領を終わらせ、日米安全保障条約を締結するという対日政策の転換をはかった。

冷たい平和

 1953年1月にトルーマンに代わって登場した共和党アイゼンハウアー大統領は、国務長官ダレスの提唱するまき返し政策をかかげ、ソ連との対決色を強めたが、同年のスターリンが死去を契機にソ連の共産党指導部がマレンコフ首相・フルシチョフ共産党書記らの集団指導体制に移行し、てから平和共存を模索するようになり、1955年の西側における西ドイツのNATO加盟と再軍備、東側におけるワルシャワ条約機構の結成は、冷戦構造を確定すると共に、両陣営が相互に相手を交渉相手として認めあう“冷たい平和”と呼ばれる状況を生じさせ、同じ55年のジュネーブ4巨頭会談でその端緒についた。

キューバ危機

 次いで1956年にソ連でスターリン批判が行われ、平和共存路線が明確になったが、一方でソ連は東欧共産圏への締め付けの強化(ハンガリー事件など)とともに核武装を強化してアメリカに対抗した。59年にはフルシチョフ訪米が実現したが、その背後では米ソは核開発競争を激化させた。このような見せかけの平和共存は、ケネディ大統領の時のキューバ危機でそのもろさを際立たせた。

ベトナム戦争

 キューバ危機は解消されたものの、1960年代のアメリカ合衆国はアジアの共産化の防止という意図からベトナムへの介入を強めてベトナム戦争に突入した。しかしその長期化はアメリカ経済の行き詰まりとともに激しい反戦運動の広がりをもたらし、アメリカ合衆国の一体感を損なうこととなり、1971年にはニクソン大統領はドル危機の解消のためドル=ショックといわれる処置をとらざるを得なくなった。これは戦後の資本主義陣営の中のアメリカ一極体制が崩れたことを意味しており、統合を進めた西ヨーロッパ諸国、戦後復興を遂げた日本との三極構造に転換することとなった。戦後のもう一つの大きな変化であるアジア・アフリカ・中東などでの民族独立の進展が、新しい国際情勢をもたらした側面もある。

(5)アメリカ外交の多面化

冷戦後期(70~80年代)のアメリカ外交

 共和党ニクソン大統領のキッシンジャー外交であアメリカ外交は大きく転換する。それは従来の理念的な孤立主義外交や国際協調外交といった枠組みではなく、国際社会の勢力関係の中で現実的な国益を探ろうという現実主義外交であり、ベトナム戦争の有利な終結をめざして中国と関係改善に踏み切るという大胆な転換を行った。

デタントからサミット外交へ

またキッシンジャー外交はデタント(緊張緩和)を進展させ、核軍縮を現実的にした。さらに第4次中東戦争の影響で起こった1973年のオイル=ショックによって、アメリカを先頭とした戦後資本主義経済の成長を終わらせ、低成長時代に入るという大きな変化が起こった。75年からは国際社会の調整はサミットの場に移り、アメリカもその一員に過ぎない存在となった。70年代末の民主党カーター政権は人権外交を掲げ、パナマとの新パナマ運河条約締結に合意、将来の返還を約束するなど協調的な外交を展開したが、イラン革命に直面し、イラン・アメリカ大使館人質事件の処置を誤って人気が急落し、共和党レーガンの強硬外交が復活した。

レーガン外交と新冷戦

 一方の東側のソ連社会主義もこの間、行き詰まりが深刻になっていた。硬直したブレジネフ体制の下で79年にアフガニスタン侵攻が強行され、再び米ソ関係は新冷戦という対立に戻った。アメリカは共和党レーガン大統領が戦略防衛構想(SDI)強硬な核強化路線をとり、ラテンアメリカでは1983年のグラナダ侵攻や、ニカラグア革命への干渉など、強硬策をとった。このような「強いアメリカ」を掲げたレーガン外交は、新冷戦という新たな国際的緊張関係をもたらしたが、アメリカ国内では軍事支出が増大して財政赤字と貿易収支の赤字という「双子の赤字」で悩むこととなり、その解消のための「小さな政府」の提唱、社会福祉の縮小、規制緩和などの新自由主義経済政策が採られた。

冷戦終結

 このように米ソ両陣営で体制矛盾が強まる中、1985年のソ連のゴルバチョフ政権の登場以降、急速に社会主義陣営の自己解体が進み、1989年には東西冷戦の象徴であったベルリンの壁が開放され、一気にブッシュ=ゴルバチョフのマルタ会談での冷戦の終結宣言となり、その勢いはさらに91年のソ連崩壊に行き着くこととなった。

(6)冷戦終結後のアメリカ外交

湾岸戦争とアメリカ外交

 冷戦構造解体後の1990年代以降の国際社会では、湾岸戦争に見られるような地域紛争、さらに民族紛争・宗教対立が激化し、国際連合のPKO活動が行われるようになった。イラクのフセインによるクェート侵攻に対しては共和党ブッシュ(父)政権は国連の多国籍軍の主力となって湾岸戦争を遂行した。ブッシュ共和党政権の覇権主義的な行動は、すでに1989年のパナマ侵攻に見られており、それはブッシュ(子)のイラク戦争の予行演習とも言われており、軍事力によって他国の主権を侵害し、アメリカにとって不都合な政権を排除するという、国際連合の精神にはする単独行動主義であった。

クリントン外交

 レーガン・ブッシュ政権の覇権主義的外交と緊縮財政は次第に国民のいらだちを強め、1993年から民主党クリントン政権に交替した。クリントン政権は経済復興を優先して安定を取り戻し、外交では中東和平でのオスロ合意、95年のベトナムとの国交回復などの成果を上げたが、パレスチナ問題はその後再び悪化している。旧ユーゴのボスニア紛争にも介入し、95年末に和平協定を成立させたた、99年のコソヴォ紛争ではNATO軍とともに人道的介入と称してセルビアへの空爆に踏み切り、アメリカの軍事力依存体質が再び顕著となった。
 冷戦終結後、各地で民族紛争が激しく起こるようになり、アフリカでもソマリアルワンダで深刻な危機に陥った。クリントン政権は国連平和維持軍(PKF)の主力として兵力を派遣したが、実効的な効果は上げることができなかった。

パックスアメリカーナ

 1990年代、連戦の終結、ソ連の崩壊という事態からアメリカが唯一の軍事大国として存在感を増すこととなり、「民主主義と自由」を守る「世界の警察」として世界各地に軍事力を展開する姿勢は、「パックス・アメリカーナ」という言葉さえ生んだが、また同時に中東やアフリカ、中米、アジア各地で反米感情をももたらすこととなった。

9.11以後

 しかし、湾岸戦争以来のアメリカの行動に対する中東でのアラブ人の中に反発がかえって強くなり、21世紀に入って9.11の同時多発テロという事態となった。テロを国家に対する宣戦布告と見た共和党ブッシュ(子)政権は、報復的なアフガニスタン攻撃を行い、さらに2002年に「アメリカ合衆国の国家安全保障戦略」(ブッシュ=ドクトリン)を発表してテロリストとの戦いでは「先制的攻撃」が許容されるという、いわゆる先制攻撃論を明確にした。

イラク戦争とユニラテラリズム

 その上で、2003年、イラク・フセイン政権がタリバンの背後にあり、大量破壊兵器を所有していると判断して、国連決議のないままイラク戦争に踏み切った。このように9.11以後は、テロとの戦いという名目でのアメリカの軍事的な単独行動主義(ユニラテラリズム)が顕著になってきた。しかしこのような強硬路線にもかかわらず、アフガニスタンとイラクの情勢は好転せず長期化の様相を見せ、またアメリカ経済の破綻もあって2008年の大統領選挙は共和党のオバマが勝利し、アメリカ合衆国の外交も協調路線、平和路線に転換しようとしている。

「オバマのアメリカ」の試練

 一方、アメリカが軍事的行動を自制しようという動きに転じると、残る二つの大国、ロシアと中国がそれぞれ強硬姿勢を見せ始めている。ロシアのプーチン政権はウクライナに介入してクリミア半島を強制的に併合し、中国の習近平政権は南シナ海や東シナ海への海洋進出を強めている。オバマ政権はロシア、中国とも友好関係を維持しながら、対応に苦慮している。また、中東情勢でも「アラブの春」以来、アメリカは主導権を発揮できず、シリア情勢、ハマスとイスラエルの対立など、混迷が強まっている。
 2014年には、中東での新たな原理主義運動「イスラム国」の台頭など、難しい問題が持ち上がり、平和路線を採るオバマ政権に対して「軟弱だ」という共和党からの非難が強まり、10月の中間選挙で共和党が圧勝するという事態となった。2016年の大統領選挙では、イスラム国を絶滅すると宣言した共和党トランプが当選した。

参考 アメリカ外交の4潮流

 アメリカの外交は必ずしも孤立主義が不動の原則なのではなく、いくつかの路線、理念が複雑にからまりながら、国際情勢と国内情勢の変化に伴って変転している。アメリカの外交政策に、(1)ハミルトン型、(2)ジェファーソン型、(3)ウィルソン型、(4)ジャクソン型、の4つの潮流があることをウォルター・ミード『神の特別なお慈悲』2001をもとに、村田晃嗣『アメリカ外交 希望と苦悩』2005 講談社現代新書 p.35-41で論じられている。それによると、各潮流は次のようにまとめることが出来るという。
 (1)ハミルトン型(ハミルトニアン) ・海洋国家をめざす。対外関与に積極的。国内の限界に楽観的。
 (2)ジェファーソン型(ジェファーソニアン) ・大陸国家をめざす。選択的な対外関与。国力の限界に自覚的。
 (3)ウィルソン型(ウィルソニアン) ・普遍的な理念を外交目標として追求。
 (4)ジャクソン型(ジャクソニアン) ・国権の発動や国威の高揚を重視。軍事力に傾斜。 
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ノートの参照
10章2節 ウ.合衆国憲法の制定
第12章1節 イ.ウィーン体制の動揺
書籍案内

西崎文子
『アメリカ外交とは何か
-歴史のなかの自画像』
2004 岩波新書

村田晃嗣
『アメリカ外交 希望と苦悩』
2005 講談社現代新書

A・シュレジンガー・Jr 藤田文子/博司訳
『アメリカ大統領と戦争』
2005 岩波書店

斉藤孝
『戦間期国際政治史』
1978 岩波全書
2015 岩波現代文庫で再刊