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カーター

アメリカ合衆国第39代大統領。民主党。在職1977~1981年。人権外交を展開しパナマ運河返還を実現したが、イラン革命などの外交処理を誤り1期で終わった。

  アメリカ合衆国民主党の政治家。南部のアーカンソー州知事。1976年の大統領選挙で、南部出身のリベラル派として、黒人と労働者層の支持で共和党フォードを破り当選した。中央では無名だったので、立候補したときは Jimmy, Who? と言われた。内政課題のインフレでは減税策を採ったためかえって増進させ、減税率を引き下げたため、国民の信頼を失った。また1979年にイラン革命直面し、第2次石油危機が始まると、エネルギー政策の全面的見直しを提唱、アラブ原油依存体質の転換を図った。

カーター外交

 その特質は「カーター外交」といわれる外交政策に現れている。まず人権擁護を柱にすえ「人権外交」を掲げ、1977年の新パナマ運河条約の締結、1978年のエジプト=イスラエルの和平交渉の仲介(キャンプデーヴィッド合意)、1979年の米中国交正常化、ソ連とのSALT・Ⅱ合意などを実現させた。
 しかしソ連との友好的な関係は同年のソ連軍のアフガニスタン侵攻によって崩れ、カーター政権はモスクワ・オリンピック参加を拒否して対抗し、SALTⅡ合意は破棄された。また同年、イラン革命が勃発、アメリカ大使館人質事件が発生してその解決に失敗し、80年の大統領選挙で共和党のレーガンに敗れ退陣した。 → アメリカの外交政策
 退陣後は民主党政権下ではたびたび北朝鮮への特使として派遣され、人質事件の解決などにあたっている。

イラン大使館人質事件

 1979年11月、イラン大使館人質事件がおこると、テレビは連日大使館周辺のデモの映像を流し、人質事件が発生してから「今日で何日目」と連日報道した。「アメリカがこれまで、まったく相手にもしなかったような小国に、突然首根っこを押さえられたために、アメリカ人のフラストレーションは日一日高まった。」来年に予定されていた大統領選で再選を目指していたカーターは、自分の人気が急激に下がり、対抗馬のエドワード=ケネディに水をあけられたことに焦りを感じた。大統領は1カ月後の12月下旬から、ホワイトハウスの閣議室で毎週金曜日に朝食会を開き、関係閣僚、補佐官やスタッフが約50人集まり議論を重ねた。クリスマスにはソ連のアフガニスタン侵攻が始まったので、両方を検討することとなった。これとは別に国家安全保障会議(NSC)の常設下部機関で危機管理に当たる特別調整委員会がホワイトハウス地下の部屋で開かれ、こちらは大統領を除いてさらに徹底的に議論されていたが、決定は朝食会で行われた。まず首席補佐官ジョーダンが特使としてイランに派遣され、パーレビ国王独裁体制を支援したことを誤りと認め、遺憾の意を表したが、謝罪の言葉は使わなかったので、ホメイニ側に拒絶された。
 最後の手段としての人質救出作戦が1980年4月11日に決定された。バンス国務長官は軍事作戦は非現実的であり、強行すれば人質53人のうち何人かは処刑されるであろうと強く反対した。ブラウン国防長官、ジョーンズ統合参謀本部議長は賛成し、カーターは救出作戦を許可した。バンスは、たとえ成功しても辞任するとして辞表を提出した。 → 救出作戦の実際はアメリカ大使館人質事件の項を参照。
 4月24日、作戦は強行された。しかし、大型ヘリが砂漠の風にあおられて墜落、さらに輸送機に接触して爆発し、作戦は失敗に終わった。バンス長官は予定通り辞任した。
(引用)バンスのような人がもっと多くいたら、この救出作戦は回避できたかもしれなかったという人もいるが、大統領の政治生命の維持が政策決定の重要な基準になり、また大統領自身の決断が、何より決定的力を持つアメリカ合衆国の政治制度の下で、これはなるべくしてなった救出作戦の決定だったと言えるだろう。<飯沼健真『アメリカ合衆国大統領』1988 講談社現代新書 p.135>
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第16章4節 イ.米ソ両両大国の動揺
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飯沼健真
『アメリカ合衆国大統領』
1988 講談社現代新書