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ユーゴスラヴィア

第一次世界大戦末の1918年、セルビアを中心に、南スラブ系の諸民族を統合して成立したセルブ=クロアート=スロヴェーン王国が1929年にユーゴスラヴィア王国に改称。第二次世界大戦では1941年、ドイツ軍の侵攻により消滅。第二次大戦後の1945年にユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国を建国したが、1991年から分離独立が始まり、2006年に消滅した。

 ユーゴスラヴィア(略称ユーゴ)は、その前身セルブ=クロアート=スロヴェーン王国をふくめても、1918年からナチスドイツによる占領期をふくめ、1991年までの70数年間しか存在しなかった、複合国家である。南スラヴ人を中心にした多民族国家であるとともに、北は旧ハプスブルク帝国領、南部は旧オスマン帝国領であったという歴史的環境の違いから、宗教・言語・文字も複雑に交錯する「モザイク国家」であった。その歴史は、次の二期に分けられる。
 → (1)ユーゴスラヴィア王国の成立  (2)第二次世界大戦  (3)ユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦  (4)ユーゴスラヴィアの解体
第一のユーゴ 第一次世界大戦末期の1918年、民族自決の原則が認められて独立した南スラブ系の国家は、当初は「セルブ=クロアート=スロヴェーン王国」と称していた。1929年から「南スラヴ」を意味するユーゴスラヴィア王国となった。ユーゴスラヴィア王国は1941年にドイツ軍のバルカン侵攻によって枢軸側に占領されて消滅した。
第二のユーゴ 第二次世界大戦中、ナチスドイツに対するパルティザン闘争を戦ったティトーの主導の下に共産党が権力を握り、1946年に共和政の連邦国家としてユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦が建設された。民族、文化、宗教の違いを含む多民族国家であるが、ソ連と一線を画した社会主義路線を採用して、第三勢力の中心として国際政治でも重要な役割を担った。しかし、ティトーの死後、内部の民族対立が起こり、1991年から分離独立が相次ぎ、現在は存在しない。

(1)ユーゴスラヴィア王国の成立

第一次世界大戦後に成立したセルブ=クロアート=スロヴェーン王国が1929年に「南スラヴ」を意味するユーゴスラヴィア王国に改称した。いくつかの民族、文化、宗教の違いを含む多民族国家であった。

「第一のユーゴ」

 ユーゴスラヴィア王国は、歴史的文化的に異なる、さまざまな地域から構成されていた。
・オーストリア=ハンガリー帝国支配下で厳密に言えばオーストリア領とされていた、スロヴェニアとダルマティア
・同じく厳密にはハンガリー領とされていた、クロアティア、スラヴォニアとヴォイヴォティナ
・オーストリアとハンガリーの共同統治(軍事占領)下のボスニア=ヘルツェゴヴィナ
・独立国であったセルビア王国(マケドニアの一部含む)とモンテネグロ王国
  戦間期の国勢調査では民族別調査は行われず、宗教別・母語別の調査が行われたのみであるが、1921年の調査では、ギリシア正教徒が47%、カトリック教徒が39%、ムスリムが11%であった。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.58-60>

擬制の国民国家

 「第一のユーゴ」はきわめて困難な国際環境のもとで、セルビアの政治的エリートを中心として統一されたことは事実だが、重要なのは、外からの圧力で人為的に建国されたのでも、ロシアが征服により領土を拡張したように、セルビア王国型の南スラヴ地域を征服することによって建国されたのでもなかったことである。しかし、その後にわたって問題を残すことになるのは、この多民族からなる統一国家が、南スラヴという「単一民族」に民族自決権が承認されて築かれた「国民国家」とされたことである。(チェコ人とスロヴァキア人がチェコスロヴァキア人という単一民族の民族自決権が承認されたのと同様であるが)「第一のユーゴ」の場合、南スラヴという民族区分は歴史的経験や宗教や言語を異にするセルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人にとって容易に受け入れられる概念ではなかった。・・・南スラヴという「単一民族」とはほとんど実体が伴わず、民族自決の主体のない、擬制の「国民国家」であった。<柴宜弘 同上 p.59-61>

ユーゴスラヴィア王国

 国王となった旧セルビア王国のアレクサンダルとセルビア人を主体とした政府は、上からの国民統合を図ろうとしたが、クロアティア人はセルビア人主導の統合には反発し、緩やかな連邦制を主張した。またクロアティアの独立を主張する政党(クロアティア農民党など)も現れた。1921年に憲法が制定され、立憲君主政のもとで議会が開催されることとなったが、その議員はほとんどが地域政党に属し、民族横断的な政党は共産党しかなかった。1928年には議会の議事録をラテン文字を使うかキリル文字を使うかで紛糾し、議場で発砲騒ぎが起きるなどの混乱が生じた。こうした混乱の中で、国王アレクサンダルは29年1月に宣言を発表し、時限的ながら独裁制を樹立して議会の解散と憲法の停止を命じた。国王独裁は議会制の下で解決できなかったクロアティア問題に終止符を打つことを最大の目的として、強引に国民統一を図ろうとした。同年10月には国号を「ユーゴスラヴィア王国」と改め、行政区画も民族分布を意識させない新たな区分に切り換えた。<柴宜弘 同上 p.61,69>

国王暗殺事件

 国王アレクサンダルは1931年に新たに憲法を制定、議会と一定の市民的自由を復活させたが、おりから世界恐慌が波及して農村の困窮は頂点に達し、その不満を吸収する形でクロアティア人のファシスト集団ウスタシャが反乱を起こすなど活動を開始した。ウスタシャの創設者パヴェリッチはイタリアに亡命してムッソリーニのもとで活動し、クロアティアの独立を目指すテロ活動を指導した。国王アレクサンダルはチェコスロヴァキア・ルーマニアとの小協商などによってファシズムの脅威に対して安全保障を図ろうとしたが、フランスにも依存しようとして1934年10月にパリを訪問中した。その途中マルセイユでフランス外相バルトゥーと共にウスタシャとマケドニアのVMROの両テロ組織に属する一青年によって暗殺されてしまった。<柴宜弘 同上 p.70-72>
 このような不安定な民族対立はナチスドイツがつけいるスキをつくることとなり、第二次世界大戦でのユーゴスラヴィア王国はドイツ・イタリアのバルカン侵攻を受けて枢軸国に占領され、国王はロンドンに亡命したが、主導権は国内でパルティザン闘争を続けた共産党のティトーの手に移って、戦後に社会主義国ユーゴスラヴィア連邦が成立して王国は滅びることとなった。

ユーゴスラヴィア(2) 第二次世界大戦

1941年、ナチス=ドイツが侵攻し占領される。そのもとで分割され、クロアティア独立国のみが存続。パルチザンによるナチスに対する抵抗が激しくおこなわれる。

ナチス=ドイツの侵攻

 ドイツはポーランドに侵攻して1939年9月に第二次世界大戦が勃発、ドイツはソ連とポーランドを分割すると、戦線を西に転じ、一気にフランスを制圧した。しかし、イギリス上陸作戦を阻まれ、再びその戦場を東に転じ、1940年11月のルーマニアハンガリー、41年3月のブルガリアと相次いで日独伊三国同盟に加入させて衛星国化した。イタリアもユーゴスラヴィアとギリシア侵出を狙ったが、それはいずれも失敗した。
 1941年3月、ヒトラーはユーゴスラヴィア王国に圧力をかけ、親ドイツ派政権はそれに応じて日独伊三国同盟への加入に同意した。ところが首都ベオグラードなどで始まった共産党や市民による反対デモが全国に及び、親西欧派将校団がクーデタによって親ドイツ政権を追放した。これに対して4月6日、ドイツ軍はバルカン侵攻を開始し、ベオグラードを空爆し、同時に機甲部隊を進撃させ、イタリア・ハンガリー・ブルガリア軍も一斉に国境を越えて侵入した。ユーゴスラヴィア王国軍は反撃を加えるヒマもなく降服、国王と政府は直ちに亡命し、国土は枢軸軍に占領されてしまった。

枢軸国によるユーゴスラヴィアの分割

 セルビアはドイツの直接軍政下に置かれて、スロヴェニアはドイツとイタリアで折半され、モンテネグロとダルマティア海岸部(現クロアティアの一部)はイタリアの施政下に置かれ、マケドニアの西部とコソヴォはイタリア占領下のマケドニアに組み込まれた。クロアティア、スロヴォニア(現クロアティアの一部)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは「クロアティア独立国」として独立が認められ、イタリアから帰国したファシスト集団ウスタシャの指導者パヴェリッチを指導者とする傀儡政権が樹立され、日本も含む枢軸国から承認された。

亡命政府

 ロンドンにはユーゴスラヴィア王国の亡命政府が樹立されたが、国王ぺータル2世は17歳、政権内部のセルビア人とクロアティア人などの対立を収拾することができず、占領下の祖国の抵抗を指導することができなかった。亡命政権の内部対立は最後まで続き、戦後に本国にティトー政権が成立すると消滅した。

クロアティア独立国の民族対立

 クロアティア独立国の政権を握ったファシスト集団ウスタシャは、1930年代から活動を開始した「純粋なクロアティア人国家」の建設を目指す狂信的な集団で、イタリアのムッソリーニに支援されていた。傀儡政権の指導者パヴェリッチはヒトラーと同様の人種政策を進め、ユダヤ人狩りやジプシー狩りと同時に「セルビア人狩り」を行った。セルビア人の宗教であるセルビア正教会は弾圧され、彼らの使うキリル文字は禁止された。クロアティア人とセルビア人の外見は同じなので、区別するためにセルビア人は正教徒を意味するPの文字をしるした青い腕章を着けなければならなかった。

ウスタシャとチュトニク

 ファシスト集団ウスタシャはクロアティア人を差別するだけでなく、大量虐殺行為を繰り返した。正確な数字は不明であるが一説によると殺害されたセルビア人は33万4千人と推定されている。実にクロアティア独立国内のセルビア人の6人に一人が殺されたことになる。これに対しセルビア人の多くはパルチザンに参加してドイツ占領軍とウスタシャと戦った。そもそもは枢軸軍に対する抵抗運動組織として活動をはじめたチュトニクはセルビア主義的色彩を強め、ウスタシャに対抗してクロアティア人やムスリム攻撃を繰り返した。全ユーゴで殺害されたクロアティア人は20万7千人、ムスリムは8万6千と推計されている。しかしチュトニクは偏狭なセルビア民族主義を掲げており、ドイツ軍とは正面から戦おうとしなかったので民衆の支持は無かった。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.87>

共産党のパルチザン闘争

 ユーゴスラヴィアでナチスおよびファシストと戦う主力となったのはティトーの率いる共産党が組織したパルチザン部隊であった。その勢力は15万に達し、43年夏には国土の約半分を解放区にすることができた。11月には共産党書記長ティトーを議長とする臨時政府として国民解放全国委員会を組織した。45年3月には亡命していた王国政府との連合政権が成立し、ティトーが首相となった。王国政府への支持はほとんど無く、11月の総選挙ではティトーの率いる「人民戦線」が大勝した。共産党・人民戦線以外には、民族横断的な政治勢力は存在していないことがその勝利の要因であった。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 / 同『バルカンの民族主義』1996 世界史リブレット 山川出版 / 木戸蓊『激動の東欧史』中公新書 p.22 などを参照>

(3)ユーゴスラヴィア社会主義共和国連邦

第二次世界大戦後、ティトーのもとで連邦国家を形成。独自の社会主義路線と非同盟主義を採る。多くの民族から成る多民族国家であり、「モザイク国家」と言われた。ティトー死後、分解が始まり、2006年に消滅した。

旧ユーゴスラヴィア国旗
 ユーゴスラヴィア連邦(略称ユーゴ)は、第二次世界大戦後、1946年に6つの共和国から成る連邦国家として発足し、社会主義をとりながらソ連とは一線を画した独自な体制を築いた。それはナチスドイツと戦った英雄ティトーの強力な指導力で連邦が維持されているという面が強く、1980年のその死後、次第に分解に向かっていった。1991年から次々と離脱し、セルビアとモンテネグロだけがユーゴスラヴィア連邦に残ったが、2006年6月、モンテネグロも分離独立し、ユーゴスラヴィア連邦は完全に消滅した。
ユーゴスラヴィアの国旗 右は1946~92年の旧ユーゴスラヴィアで使われた国旗。青白赤の横三色は現在のセルビアと同じであるが、中央に赤い星を配していた。五稜星はセルビア、モンテネグロ、マケドニア、クロアチア、スロヴェニアの主要5民族を表していた。<辻原康夫『図説国旗の世界史』河出書房新社 p.80>

ユーゴスラヴィア連邦の成立

 戦前のユーゴスラヴィア王国(「第一のユーゴ」)は第二次世界大戦が始まるとナチスドイツなど枢軸側によって占領されて崩壊した。第二次世界大戦中のユーゴスラヴィアでドイツおよびファシストとの戦ったパルチザン戦争の指導者ティトーは、42年にユーゴ人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)を組織し、共産党を中心に戦後政権を準備した。44年10月首都ベオグラードが解放され、翌年2月にはティトーを首班とした臨時政府が成立、11月に総選挙(単一候補者名簿方式)で共産党が圧勝、46年1月にスターリン憲法を範とした憲法を制定して、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国(「第二のユーゴ」)が発足した。しかしソ連共産党と一線を画すティトーの路線は次第にソ連との対立を強め、1948年にはコミンフォルムから除名され、連邦制・自主管理・非同盟という独自路線を進むこととなる。

自主管理社会主義

 ユーゴでは企業の国有化と土地改革が進められ大企業や富農は一掃されたが、農業の集団化は行われなかった。48年のコミンフォルム追放後、ユーゴスラヴィアではソ連型の人民民主主義からの転換に迫られたが、新たな社会主義の理論として提起されたのが自主管理社会主義であった。自主管理とは、国有化された工場で、労働者が生産から分配にいたるすべての権限をもつことで、その機関として各工場に労働者評議会が設立された。また52年には共産党は指令を出すところではなく、説得とイニシアティヴを発揮するところであるという理念から「共産主義者同盟」と改称された。

非同盟政策

 また外交面では非同盟政策をかかげ、国際連合を舞台として西側諸国とも経済関係を結び、特に「積極的平和共存」を掲げて東西どちらの陣営にも属さない姿勢を貫いた。53年にスターリンが死去するとソ連との関係も改善され、55年にフルシチョフが訪問し国交を正常化させた。しかし、同年結成されたワルシャワ条約機構には加盟しなかった。
 1961年には首都ベオグラードで第1回非同盟諸国首脳会議を開催、アジア・アフリカ諸国を中心に25ヵ国が参加した。こうしてティトーはネルー、周恩来、ナセルらとともに非同盟主義のリーダーとして、世界的に重要な立場に立った。

ユーゴ社会主義の転換

 自主管理社会主義と非同盟政策は1964年の憲法で根拠が与えられ、同時に国名はユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国に変更された。65年からは「市場社会主義」を柱とした経済改革が始まり、経済分野での自由化が進められた。しかし、経済改革は思うようにあがらず、生活水準の低下、貿易収支の悪化を招き、地域と個人の経済格差が広がってしまった。なによりも自由化とは名ばかりで連邦政府の実権はセルビアが握っている状態は変わらなかった、次第に民衆の不満が鬱積していった。この間、1968年のチェコ事件ではチェコを支持し、ソ連の軍事介入を厳しく非難した。中国との関係では毛沢東はユーゴスラヴィアの改革を修正主義として批判したため、関係は悪化した。

1974年憲法

 1970年にはクロアチアで市民、学生が自治を要求してストライキを行うなど、民族主義の動きが表面化した。ティトーの連邦政府は運動を抑えつけるとともに自由化を分権化を明確にした新憲法を1974年に制定したが、一方でティトーは議会において終身大統領に選出され、統合の象徴を強化する措置がとられた。しかしこの憲法は各共和国が自立する根拠を与えることとなる。

Episode モザイク国家

 第二次世界大戦後に成立したユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国は、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と言われる複合国家であった。それぞれを確認すると次のようになる。
  • 7つの国境:イタリア、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ギリシア、アルバニアの7ヵ国と国境を接している。
  • 6つの共和国:北から、スロヴェニア、クロアチア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国から成る連邦国家である。
  • 5つの民族:スロヴェニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、マケドニアが主たる民族。これ以外にムスリム人(イスラーム教徒)、ドイツ人、ロマ、など少数民族が存在。
  • 4つの言語:スロヴェニア語、クロアチア語、セルビア語、マケドニア語がある。
  • 3つの宗教:キリスト教のカトリックとギリシア正教、それとイスラーム教。
  • 2つの文字:スロヴェニア語とクロアチア語はラテン文字を使用。他のセルビア人などはロシア語と同じキリル文字を使用。
 → <柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 /同『バルカンの民族主義』1996 世界史リブレット 山川出版社/木戸蓊『激動の東欧史』中公新書 p.22 などを参照>

(5)ユーゴスラヴィアの解体

ティトーの下で連邦国家として独自の社会主義と非同盟主義を継続したが、1980年にティトーが死去すると、東欧各国の民主化の中で連邦内の諸民族にも自立独立の動き強まり、1991~92年にクロアティア、スロヴェニア、マケドニア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナが分離、解体が始まった。その間、分離に反対するセルビアとの激しい内戦(ユーゴ内戦・ボスニア内戦)が1995年まで続いた。セルビアとモンテネグロは新ユーゴスラヴィア連邦を作ったが、それも2006年に分離したため、連邦国家ユーゴスラヴィアは完全に消滅した。

 第二次世界大戦後に成立した社会主義国であるユーゴスラヴィア連邦は、旧ユーゴスラヴィア王国を継承する多民族国家であり、6つの共和国から成り立っていた。独立と統一の指導者であったティトー大統領はソ連との対立も辞さない強烈な指導力を発揮し、1948年にはコミンフォルムから除名されるなど自主管理社会主義といわれる独自路線を歩み、その存命中は統一は維持されていたが、1980年のその死によってタガがはずれたように分裂への道を歩むことになった。

東欧革命の波及

 1980年代のポーランドやハンガリーでの経済状況の悪化が続いていたところに、1985年にソ連のゴルバチョフの改革を契機として、自由化・民主化の動きが高まり、1989年秋から冬にかけて、東欧革命と言われる急速な体制転換が進行した。東欧諸国では一様に共産党による一党支配が崩壊し、複数政党制による自由選挙が行われた。
 ユーゴスラヴィアは東欧諸国の中では独自路線を歩み、比較的民主的な国と考えられていたので、かえってその動きは遅れてしまった。しかし、共産主義者同盟(他国の共産党にあたる)離れは着実に進行し、1990年の同盟臨時大会で複数政党制を前提とした自由選挙の方針を採ることとなった。スロヴェニア代表はさらに民主集中制の否定まで主張して退場したため、ついに分裂してしまった。こうしてユーゴスラヴィア独自の自主管理社会主義の推進母体が消滅し、焦点はセルビアの主張する連邦制の維持か、スロヴェニアの主張する国家連合体への移行のいずれをとるかになってきた。

分離独立の開始

 ユーゴスラヴィア連邦では1990年に連邦加盟の各共和国で自由選挙が実施された。その選挙で旧共産主義者同盟系の政党が勝利を占めたのはセルビアとモンテネグロだけで、他の4共和国では民族主義的傾向の強い政党が勝利した。連邦を維持するかどうかの6共和国首脳の話し合いが続けられたが合意が得られず、1991年6月にスロヴァニアクロアティアが独立を宣言した。両共和国は経済的な先進地域で、連邦内では最も国民所得が大きく、その富が他の連邦加盟国に回されることに不満があった。ついで11月にはマケドニア、翌92年3月にはボスニア=ヘルツェゴヴィナがそれぞれ独立を宣言した。

ユーゴスラヴィア内戦

 スロヴェニア・クロアティアの独立宣言に対してセルビア及びセルビア人が反発し、ユーゴスラヴィア内戦に突入し、連邦は解体に向かって突きすすむこととなった。1992年、セルビアとモンテネグロは改めてユーゴスラヴィア連邦を発足させ(これを新ユーゴスラヴィア連邦という)て対抗し、またクロアティアとボスニア=ヘルツェゴヴィナ共和国内のセルビア人を支援して、内戦は民族紛争の様相を呈し、さらに宗教や文化の違いが浮き彫りとなって激しい憎悪がむき出しでぶつかる悲惨な状態となった。

ボスニア内戦

 特にボスニア内戦ではセルビア人勢力による民族浄化というムスリム人に対する虐殺行為が国際的非難を浴びた。内戦はEC(EU)や国連の仲介によって停戦交渉が行われたが解決つかず、最終的には1995年にNATO軍(主力はアメリカ空軍)がセルビア勢力を爆撃して、ようやく停戦が実現した。

解体の完了

 2001年6月、ウィーンで旧ユーゴの5カ国、新ユーゴ(後にセルビア=モンテネグロ)・スロヴェニア・クロアティア・ボスニア=ヘルツェゴヴィナ・マケドニアによってようやく調印され、旧国土の資産の分配方法が取り決められた。内戦勃発からの「失われた10年」は終わりを告げることとなった。<柴宜弘『図説バルカンの歴史』2001 河出書房新社 p.155>
 セルビアとモンテネグロだけが残った新ユーゴスラヴィア連邦であったが、この両地域は新たな問題としてセルビア領内のコソヴォでのアルバニア系住民の自治要求が出てきた。セルビアはそれを抑圧したが、モンテネグロにはアルバニア人も多かったので、セルビアに対する反発がうまれた。両者は連邦制を維持することが困難となり、2003年にセルビア=モンテネグロという、対等な二国の国家連合という形をとることになった。さらに2006年、モンテネグロは国民投票を行い、セルビアとの国家連合を解消することを決定、ここに旧ユーゴスラヴィア連邦を構成した6共和国は完全に分離し、それぞれ単一の国家となった。こうして世界史の地図上から、ソヴィエト連邦に続いてユーゴスラヴィア連邦も姿を消した。

コソヴォ問題

 なお、セルビア共和国内にはコソヴォとヴォイヴォティナ(ハンガリー人が多い)の2自治州があったが、このうちアルバニア人が多いコソヴォはかねてからセルビアからの完全独立を要求しており、セルビアのミロシェヴィッチ政権が自治権を制約したことに反発して91年に「コソヴォ共和国」の独立を宣言、98年コソヴォ問題が表面化して、99年3月にはアメリカを中心とするNATO軍が「人道的介入」と称したセルビアを空爆が行われ、6月に和平が成立した。コソヴォは2008年に再び独立を宣言したが、まだ国際的には承認されていない。
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書籍案内

柴宜弘
『ユーゴスラヴィア現代史』
1996 岩波新書

柴宜弘
『バルカンの民族主義』
1996 世界史リブレット
山川出版社

柴宜弘
『図説バルカンの歴史』
2001 河出書房新社