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セルビア人/セルビア

セルビア人は南スラヴ人の一系統。7世紀頃バルカン半島西部に国家を建設した。東方教会の中のセルビア正教会を成立させ、ロシアとは親密な関係が続くが、14世紀末からオスマン帝国の支配を長く受けた。近代ではオーストリア・ブルガリア・トルコなどの近隣勢力とは抗争が頻発し、第一次世界大戦の要因の一つとなった。その後はユーロスラヴィア連邦に加わったが2006年に単独の共和国となった。

セルビア共和国(現在) GoogleMap


セルビア Serbia 人は、スラヴ人の中のクロアティア人やスロヴェニア人と同じ南スラヴ人の一派。バルカン半島に定住した南スラヴ系でも最も有力で、14世紀にはセルビア王国が全盛期となったが、1389年にオスマン帝国によって滅ぼされ、その後長く支配を受けた。その後、たびたび反乱を起こして自治を獲得し、第一次世界大戦後のユーゴスラヴィア王国(第一のユーゴ)と第二次世界大戦後のユーゴスラヴィア連邦(第二のユーゴ)ではいずれもその中心的存在であった。その反面、連邦内の他の諸民族との対立も起こった。連邦の解体には反対の立場であったが、ユーゴスラヴィア内戦を経て結局他のスラヴ系民族は次々と分離独立を遂げ、一時モンテネグロと新連邦を作ったが、さらにボスニア内戦の後、2006年nモンテネグロも分離独立したため、現在は単独のセルビア共和国となっている。またコソヴォ自治州などの独立問題も抱えている。

セルビア(1) セルビア王国

7世紀初め、南スラヴ人の一系統であるセルビア人が、バルカン半島西部に王国を建設、14世紀に全盛期となった。

セルビア王国の成立

 7世紀初めころにバルカンに移住し、その西部に広く定住した。8世紀からビザンツ帝国が南部を支配し、ギリシア正教の信仰が広がる。東側のブルガリア王国、南のビザンツ帝国に圧迫され、一時ブルガリアに併合される。11世紀ごろから民族統一を進めてビザンツ帝国に抵抗するようになり、1168年にはマネーニャ王のときに独立を達成、アドリア海沿岸に及ぶ広範囲の王国を築いた。その間、ビザンツ帝国を牽制するためとローマ=カトリック教会にも接近、セルビアでは両方の布教が行われたが、13世紀にはギリシア正教の方が有力となった。

14世紀の全盛期

 セルビア王国にはついで1331年ステファン=ドゥシャン王(在位1331~55年)が現れ、領土を南方のギリシアに拡大、一時はコンスタンティノープル攻略を計画(実現は出来ず)、セルビア王国の最盛期となった。銀や鉄などの資源に恵まれ、周辺諸国と交易を行い、ビザンツ法に倣った法典を整備したこの王の時代には中世セルビア文化が開花した。ストゥデニッツァ修道院など、優れた建築が多く残されている。<柴宜弘『図説バルカンの歴史』河出書房新社 p.26-27>

セルビア(2) オスマン帝国による支配

14世紀末、バルカン半島に進出したオスマン帝国に敗れ、その支配を受ける。

1389年コソヴォの戦い

 セルビア王国のステファン=ドゥシャン王が南下してビザンツ帝国を脅かしていた頃、バルカン半島には小アジアからオスマン帝国が急速に進出してきていた。オスマン帝国のムラト1世アドリアノープルを攻略、1366年に新首都エディルネとして、さらに北方に進出、1371年にはブルガリア王国のシュシュマン王の軍を破り、バルカンにさらに勢力を及ぼした。そのころセルヴィア王国はドゥシャン王の死後、分裂したために衰退していたが、ボスニア王国ブルガリアなどと連合して、1389年コソヴォの戦いでオスマン帝国軍と戦った。しかし、この戦いでスラブ系キリスト教国連合は敗れ、セルビア王国も滅亡した。その後はオスマン帝国の支配を受けることになり、住民の一部にもイスラーム化が進んだ。
 コソヴォは現在アルバニア人の居住地となっており、セルビアから分離独立を宣言した(2008年)が、セルビアにとっては祖国の歴史上、手放すことのできない土地と言うことでその独立を認めていない。この戦いで倒れた国王や武将は、民族的な英雄として現在まで口承の叙事詩として伝えられている。 → コソヴォ問題

オスマン帝国の支配

 オスマン帝国はバルカン半島を支配するに当たって、宗教的には寛容であったので、16世紀にはギリシア正教とは別にセルビア正教会が成立し、民族的なよりどころとなった。一方キリスト教徒の子弟をデウシルメによって徴発し、スルタンの親衛隊であるイェニチェリを編成すると言うことも行われた。これはセルビアなどのキリスト教徒子弟とその家族にとっては苛酷な「血税」ではあったが、イェニチェリとなったもの中からは出世したものもいた。またオスマン帝国の土地支配は、シパーヒーと言われる騎士に、土地の徴税権を与えるというティマール制で行われていた。 → オスマン帝国のバルカン半島支配

セルビア(3) 民族的自覚の高まり

オスマン帝国の支配の中、19世紀から民族的自覚高まり、1830年に自治国となり、露土戦争の後、1878年ベルリン条約で独立する。

 セルビア人は、14世紀以来のオスマン帝国の支配に対する不満が強まり、民族的自覚が高まり、1830年には自治権を獲得してセルビア公国となり、1877年に独立、1882年に「セルビア王国」となる。

反オスマン暴動

 フランス革命とナポレオンの登場はバルカンの地にも民族主義と自由主義の影響を及ぼすこととなった。1804年~13年の第一次セルビア蜂起は、豚を扱う商人カラジョルジェを指導者として、オスマン帝国政府の統制を離れて傭兵集団と化したイエニチェリの圧政に対する反乱として始まった。しかし蜂起がセルビア全土に拡大するにつれ、オスマン帝国の軍隊と衝突せざるをえなくなった。セルビア人はロシアの支援を期待して戦ったが、ナポレオン戦争が終結するとオスマン帝国が態勢を立て直し完全に鎮圧されてしまったが、この蜂起はセルビア人の民族意識を強め、「近代的な民族」としてのセルビア人が生み出されたとされる。

Episode 髑髏の塔

 フランスの詩人で後に二月革命後の臨時政府首班となるラマルティーヌは東方旅行から帰る途中、セルビアのニシュという町の近郊で異様なものを目にした。小高い丘の上に奇妙な塔が白く輝いている。近づいてみるとそれは大理石ではなく、髑髏を積み重ねて作られていた。髪の毛も残っている髑髏もあり、わずかな頭髪がひらひらと風にそよいだという。これは1804年に起こったセルビア人の反オスマン帝国蜂起の時に、オスマン政府が見せしめとして、セルビア人死者約千体の髑髏で築いたものものであった。<柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史』1996 岩波新書 p.5>

自治の獲得

 1815年から同じく豚商人のミロシュ=オブレノヴィチが指導者として第二次セルビア蜂起が起こり、独立ではなく自治の獲得という現実的な方針を採り、長期にわたる交渉によって、1830年に自治を獲得し、「セルビア公国」となった。セルビア公国は巧みな外交で列国の支持を取り付けることに成功した。
 セルビアの独立運動は同じスラヴ民族で、パン=スラヴ主義をとるロシアが支援し、それに対してオスマン帝国と同じように帝国内でスラヴ系の民族を支配しているオーストリアはスラヴ系民族の独立を抑えながらゲルマン人のバルカン進出を図ろうとして、いわゆる東方問題が起こる。

東方問題とセルビア王国

 1877年に露土戦争が起きるとセルビアはロシアを支援、戦後に開催されたベルリン会議で1878年に締結されたベルリン条約によって、正式に独立した。このときの人口は170万、同時に独立したモンテネグロ公国は20万であった。1882年にセルビア公国は王政を宣言して「セルビア王国」(これを近代セルビア王国という)となったが、急速な近代化を図ると共に近隣諸国との軍拡を競うこととなった。特にボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を獲得したオーストリア=ハンガリー帝国の進出に対しては神経をとがらせるが、同時にその動きは大セルビア主義ともとられ、近隣諸国が警戒するところとなり、バルカン問題に発展していく。

セルビア(4) 近代セルビア王国と戦争

大スラブ主義が台頭し、バルカン戦争が起こり、第一次世界大戦への導火線となる。大戦後に、南スラブ人が自立して建国したユーゴスラヴィア王国の中心となる。

近代セルビア王国

 1882年に王政となってたセルビア王国の王位は、第2次セルビア蜂起を指導したミロシュ=オブレノヴィチの家系(オブレノヴィチ朝)が継承していたが、1903年にそのアレクサンダル1世が親オーストリア=ハンガリー帝国の立場を採ったため、それに反対する軍人がクーデタを起こして国王を暗殺し、かわって親ロシアのカラジョルジェヴィチ朝ぺータルが即し、南スラヴ統一の推進を明確にした。また、セルビアはこの年、国民議会選挙を実施し、憲法を制定して近代的立憲国家としての形態を整えた。

大セルビア主義

 オスマン帝国の青年トルコ革命の混乱に乗じて、1908年オーストリア=ハンガリー帝国ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合すると、その地には多数のセルビア人が住んでいたので、セルビア王国などスラヴ系民族は強く反発した。スラヴ系民族の中にはセルビアを中心にスラヴ人の統一国家を作ることを主張する大セルビア主義が強くなり、オーストリアのパン=ゲルマン主義と鋭く対立するようになった。内陸国であるセルビア王国の願望は、ボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合してアドリア海への進出をはかることであった。

第1次バルカン戦争

 1912年にはロシアの仲介でブルガリア、ギリシア、モンテネグロとそれぞれ二国間同盟を結び、バルカン同盟を作りあげた。ちょうどそのときオスマン帝国はイタリアとの戦争に直面していたので、同1912年10月、セルビアなどバルカン同盟諸国はオスマン帝国に宣戦布告してバルカン戦争(第1次)となった。この戦争で敗れたオスマン帝国はバルカン半島の大部分の領土を放棄した。

第2次バルカン戦争

 オスマン帝国がバルカン半島から撤退すると、民族解放が遅れ真空地帯になっていたマケドニアに対するバルカン同盟諸国の領土的野心が衝突して、翌1913年ブルガリア軍がセルビアとギリシアに侵入しバルカン戦争(第2次)となった。ブルガリアの強大化を恐れたオスマン帝国、ルーマニアが参戦したためブルガリアは孤立して、その占領地を放棄し、縮小されることで決着がついた。この勝利によってセルビア王国はコソヴォとマケドニアを領有し、南スラヴ解放の旗手としての地位を不動のもとした。

第一次世界大戦

 1914年6月、セルビア人青年がオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者を暗殺したサライェヴォ事件が起きると、オーストリアは背後にセルビア王国の指示があるとして宣戦布告し、セルビア王国は隣国のモンテネグロ王国とともにイギリス、フランス、ロシアの三国協商諸国の支援を受ける見通しを得て同じく宣戦布告、バルカンの一角で戦闘が始まった。それが契機となり列強が次々と参戦、第一次世界大戦に突入した。
セルビアの危機 オーストリア=ハンガリー軍の侵攻に対し、セルビア軍はペータル1世が国王に復帰して国民に抵抗を呼びかけ、当初は善戦した。しかし、1915年9月にブルガリアがドイツ・オーストリア=ハンガリーと秘密軍事同盟を結び同盟側についたことから劣勢となった。ブルガリアは同1915年10月にセルビアに宣戦布告、ドイツ軍の指揮下に入ったオーストリア=ハンガリー軍とともに攻撃を開始、首都ベオグラードは陥落、国王以下のセルビア軍はコソボに撤退した。コソボ平原でもブルガリア軍に敗れて南下できなかったため、西のアルバニアを目指すこととなったが、避難民とともに厳しい冬季の山越えとなった逃避行は多くの犠牲者を出した。セルビア軍は9月には42万を数えた戦力のうち、この数ヶ月の戦闘で9万4千人が戦死するか負傷し、さらに17万4千人が捕虜か行方不明となった。結局山を越えてアドリア海に達したのは4万人あまりにすぎず、国王ペーテル1世はフランス船でギリシア領コルフ島に逃れ、兵士は同じくギリシアのサロニカに連合軍の船で送られた。<飯倉章『第一次世界大戦史』2016 中公新書 p.100>

大戦の終結とコルフ宣言

 第一次世界大戦で連合国軍の勝利が見通せるようになると、コルフ島に避難していたセルビア政府は南スラヴ民族の統一を検討していたユーゴスラヴィア委員会と協同して、1917年7月、コルフ島で14カ条からなる「コルフ宣言」を発表、そこでセルビア王国のカラジョルジェヴィチ王朝のもとで、セルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人を統一した立憲君主国を建国することを宣言した。
 大戦はイギリス・フランス連合軍がギリシアのサロニカに上陸してバルカンを北上し、1918年9月にセルビア軍は英仏軍ととともにブルガリア軍に勝利し、9月30日に停戦となった。しかし、第一次世界大戦でのセルビアを含む南スラヴ地域にとってはその犠牲が多く、死者は190万(第二次大戦時のユーゴスラヴィアの死者170万よりも多い)にのぼっている。

ユーゴスラヴィア王国の建国

 1918年11月に戦争が終わり、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、南スラヴ地域は混乱、しかもイタリアがロンドン秘密条約に基づいてダルマチアを占領しようと動くなど、緊迫した。国家統一を急がなければならなくなった南スラヴ人各組織は、コルフ宣言の線で結束することとなり、12月1日、セルビア王国の摂政アレクサンダル公は「セルブ=クロアート=スロヴェーン王国(セルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人の王国、の意味)の建国宣言を行った。
 このセルブ=クロアート=スロヴェーン王国は、1929年に「南スラヴ」を意味するユーゴスラヴィア王国に改称した。これを「第一のユーゴ」ともいうが、いくつかの民族、文化、宗教の違いを含む多民族国家であった。

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セルビア(5) ユーゴ内戦とセルビア

セルビアは第二次世界大戦後、社会主義国ユーゴスラヴィア連邦の有力な一員となったが、その指導者ティトーが1980年に死去したのを機に解体が始まり、セルビアは連邦維持の立場で内戦が続いた。一時期モンテネグロと新ユーゴスラヴィア連邦を構成、さらに国家連合体をつくったが、コソヴォ問題から対立し、2006年に分離、単独のセルビア共和国となった。

Serbia
セルビアの位置。彩色部分が旧ユーゴスラヴィア連邦。
 第二次世界大戦でユーゴスラヴィア王国がドイツに侵攻されると、ティトーの率いる共産党を主力とするパルチザン闘争によって抵抗を続け、1946年には社会主義を掲げる連邦国家であるユーゴスラヴィア連邦が成立した。これを「第二のユーゴ」ともいう。ティトーは自主管理社会主義非同盟主義を掲げて、ソ連から距離を置き、民族の対立を克服する独自の社会主義国家建設をめざした。

複雑な民族問題

 セルビアはユーゴスラヴィア連邦を構成する一つの共和国にすぎなかったが、セルビア人は連邦内においても人口で最も多く、主導的立場にあった。セルビア人はまたクロアティアやボスニア=ヘルツェゴヴィナにも多数居住し、セルビア共和国への集権的な権力の集中を図ろうとし、それは他の民族からは「大セルビア主義」と警戒されるようになった。
 しかし、問題が複雑であるのは、このセルビア共和国の中に、アルバニア人が多数を占めるコソヴォと、ハンガリー人が多数を占めるヴォイヴォディナという二つの自治州が含まれていることであった。この二つの自治州は、自治権を拡大し、共和国並みにすることをセルビアに要求し、セルビア政府はそれを抑圧してきていた。特にコソヴォ自治州はムスリムも多いという宗教的な違いもあって根深い対立が続いていた。それでもユーゴスラヴィア建国の英雄ティトー(彼自身はクロアティア人)が生きている間は、自主管理社会主義という理念のもとで統一国家として存続していたが、1980年のティトーの死は、ユーゴスラヴィアの民族問題を一挙に吹き出させるきっかけとなった。

ミロシェヴィッチ政権の成立

 1970年代に入り、ユーゴスラヴィア各共和国で民族主義的な暴動が頻発するようになり、苦慮したティトーら指導部は、1974年憲法を制定し、共和国の主権を拡大し、セルビア共和国内の自治州の権限も共和国並みに引き上げることとした。その結果、コソヴォ州ではアルバニア人が勢力を増し、セルビア人やモンテネグロ人を迫害するケースが出てきて、州外に逃れる人びとが増えた。それをうけてセルビア人の中にコソヴォの自治権を制限せよとの声が強くなり、そのような民族主義の高揚の中から強硬姿勢をとる共産主義者同盟のミロシェヴィッチ政権が誕生した(1989~97年はセルビア共和国大統領。97~2000年は新ユーゴスラヴィア大統領)。

ユーゴ内戦とセルビア

 民族間の対立はまずセルビア共和国のコソヴォ自治州で始まったがミロシェヴィッチは力でその要求を抑えつけた。1990年の各共和国における自由選挙の実施の際でも、セルビアではミロシェヴィッチ率いる共産主義者同盟が多数を占めた。
 1991年、経済先進地域であったスロヴァニアクロアティアが独立を宣言、さらにすると、セルビアはモンテネグロとともに連邦制の維持を主張して独立を認めず、ユーゴスラヴィア内戦が始まった。さらに92年までにマケドニアボスニア=ヘルツェゴヴィナが独立を宣言、ユーゴスラヴィアの解体が進行した。
 セルビアは、クロアティア内のセルビア人勢力、ボスニアのセルビア人勢力を支援し、内戦を激化させた。1992年セルビアは民族的に近いモンテネグロと新ユーゴスラヴィア連邦を作って対抗した。

ボスニア内戦とセルビア

 特にボスニア内戦ではセルビア人勢力による民族浄化と称する非人道的な行為が国際的に非難され、1995年にはNATO軍の空爆を受け、停戦を受け入れた。

コソヴォ問題

 ユーゴスラヴィアの解体が明確となった後、セルビア内のコソヴォ自治州の独立運動(コソヴォ問題)が再び活発になると、98年にミロシェヴィッチ政権はその弾圧に乗りだし、ここでもアルバニア人に対する残虐行為が国際的に非難され、99年に再びアメリカを主体とするNATO軍の空爆を受けることとなった。

ミロシェヴィッチの退陣

   この間、ミロシェヴィッチは独裁的な力を振るって、極端な民族主義路線を続けたが、2000年の総選挙でついに落選してしまった。ミロシェヴィッチに対して国際的な追求が始まり、国際司法裁判所は人道に対する罪でミロシェヴィッチを告発、逃亡中のミロシェヴィッチは捕らえられ裁判に付されることとなった。

セルビア(6) セルビア共和国

モンテネグロとの分離

 
セルビア国旗
セルビア国旗
 和平路線に転換したセルビアは2003年、新ユーゴスラヴィア連邦を解消し、モンテネグロと対等な国家連合であるセルビア=モンテネグロを成立させた。モンテネグロはモンテネグロ人(セルビア人と同じ見ないスラヴ系)が主体であったが、同時にアルバニア系住民も多く、セルビアのコソヴォ自治州におけるアルバニア人迫害に対する反発が強かったためである。
 この国家連合は長く続かず、2006年にはモンテネグロは国民投票で国家連合を解消することを決め、ここに両国は完全に分離した。ここにユーゴスラヴィアは完全に消滅した。 → 戦後のバルカン諸国

コソヴォの独立宣言

 ソヴォ自治州の独立をめぐるコソヴォ問題は長い国際的な調停作業があったが結局合意に達せず、2008年に一方的にコソヴォ共和国が独立を宣言した。しかし、セルビアはそれを承認しておらず、現在はにらみ合い状態が続いている。また、コソヴォ共和国は西欧諸国のほとんどから承認されているが、ロシア・中国・インド・ブラジルなどはセルビアを支持し、コソヴォを承認していない(2019年現在)。
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書籍案内

千田善
『ユーゴ紛争』
1993 講談社現代新書

柴宜弘
『ユーゴスラヴィア現代史』
1996 岩波新書