全斗煥/チョンドゥファン
韓国で1979年に朴正熙大統領が暗殺された後、軍事クーデタで実権を握り、1980年光州事件を弾圧して大統領となった。朴政権に続く軍事政権として民主化を厳しく弾圧した。1987年に大統領直接選挙などの憲法改正に応じた。韓国大統領として初めて来日。1995年、在任中の収賄などで逮捕された。
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全斗煥 1985
12・12粛軍クーデタで軍の実権を握る
全斗煥は陸軍士官学校出身の軍人で、同じく軍人出身の朴正熙大統領の維新政権下で重用され、国軍保安司令官となっていた。彼は盧泰愚らと同じく陸士十一期生グループを秘密裏に結成、「ハナ会」として人脈を拡げ、軍内部の派閥勢力を築き、軍の要職を占めるようになっていた。それを嫌悪する従来の旧軍派軍人グループとは派閥抗争を繰り返していた。1979年10月26日、朴正煕大統領射殺事件が起きると、軍は大混乱に陥ったが、全斗煥グループは軍の中枢を握る好機と捉え、臨時大統領となった崔圭夏を動かして軍トップの旧軍派、鄭昇和参謀総長を排除しようとした。参謀総長はハナ会とは関係のない軍人を首都警備司令に任命、全斗煥を東海地方の軍司令官として左遷しようとしたが、それを察知した全斗煥は、12月12日、参謀総長が朴大統領殺害犯を擁護したという口実で監禁し、ハナ会の人脈の軍人の掌握する部隊を動かして首都警備司令部を押さえ、軍の実権を握った。権力の後ろ盾を失った臨時大統領もそれを追認した。この事件は軍内部の抗争であるので、「粛軍クーデタ」あるいは「12・12事件」と言われるが、全斗煥はその後、着々と権力を強化しながら韓国の民主化運動そのものを弾圧して、1980年5月17日クーデターで戒厳令を全国に拡大して権力を握ることになるので、長い全斗煥の軍事クーデタの始まりとも位置づけられている。5・17クーデターで実権にぎる。
一方、民衆は朴正熙軍事政権が倒れたことで民主化が実現することを期待し、「ソウルの春」と言われた民主化気運が盛り上がっていた。1980年2月には臨時大統領崔圭夏は、朴政権下で捕らえられていた尹潽善、金大中など687人を復権させ期待が高まったが、同時に全国で労働争議が頻発、学生は軍事教練反対に起ち上がるなど騒然となった。5月14日にはソウル市内の大学21校、5万人の学生が戒厳令の解除と早期改憲を求めてデモを行い、その動きは全国に広がった。ソウル駅前の広場は学生デモで埋まったが、軍の出動の噂が流れる中、デモ隊は解散した。この「ソウル駅回軍」で情勢は転換したといわれるが、背景には市民と学生の連携が不十分だったことなどが挙げられている。<文京洙『新・韓国現代史』2015 岩波新書 p.138>5月17日、全斗煥は戒厳司令部の非常戒厳令を全国に拡大(済州島も含めた)、翌日には金大中、金鐘泌、李厚洛ら民主派26人を騒擾の扇動などの罪で逮捕した。さらに戒厳令布告を発表し、政治活動の停止、言論・出版・放送などの事前検閲・大学の休校などを命じた。
光州事件
この全斗煥戒厳司令部の強硬姿勢で全国の民主化運動は沈黙を余儀なくされたが、慶州南道の光州ではなおも抵抗が続いていた。1980年5月18日~27日、光州を中心とした全羅南道で起こった民衆反乱の光州事件であったが、全斗煥は軍を動員して弾圧した。後に政府が確認したのは、使者は民間人168人、軍人23人、警察4人、負傷者は4782人、行方不明者が406人となっている。新軍部政権
全斗煥は光州事件鎮圧後、新政権の足固めに努め、光州事件は金大中ら全羅南道(湖南地方)の不満分子がたくらんだ陰謀であると宣伝、韓国に以前からあった地域的対立に問題を転換させた。国民の多くもこの説明を鵜呑みにしたため光州事件は広く知られることなく、黙殺されていった。全斗煥は崔圭夏大統領が辞任したため、同年9月1日、統一主体国民会議で大統領に選出されると、10月には新憲法を国民投票で採択させ、その規定による選挙人団の間接選挙を実施して1981年2月に第12代大統領に就任した。これは韓国では第5共和国といわれた。全斗煥政権政権下の韓国は新軍部政権といわれ、実態は国家安全企画部や保安司令部など軍が実権を握り、政府批判は許されない恐怖政治であった。金大中には死刑判決が出され、国際世論によってその執行は免れたが、海外での亡命生活を余儀なくされ、金泳三は自宅軟禁によって政治活動を制約された。
また朴政権の開発独裁を継承し、同じように経済開発とアメリカ合衆国との同盟関係を優先した。このころの韓国は、NIEsの一つとしての経済発展を継続したが、一方で国内の民主化運動、反政府活動を厳しく取り締まり、言論を統制したため、停滞感は否めなかった。 なお全斗煥は1984年には韓国大統領として初めて来日、昭和天皇は挨拶で「不幸な過去」に遺憾の意を表明した。
1987年6月民主化抗争
1987年6月、全国で100万を超える学生・市民が民主化運動が起きるとやむなく「六月民主化宣言」を発表し、大統領直接選挙などを確約せざるを得なくなった。憲法は同年中に改正され、大統領は国民の直接選挙で選ばれ、任期5年で再任は認められないこととなった。大統領には全斗煥と同じ軍出身の盧泰愚が当選したが、翌1988年、野党民主派が多数を占める議会で全政権時代の政経癒着と人権弾圧の追及が大々的に始まり、その在任中の疑惑が表面化した。11月、全斗煥は国民に謝罪、江原道のお寺で隠遁生活に入った。退任後、光州事件の弾圧責任を追及される
さらに民主化の進んだ金泳三政権下の1995年には、盧泰愚前大統領に続いて全斗煥も在職中の収賄容疑で逮捕され、さらに光州事件での民衆殺害の責任も追及された結果、97年に大法院によって無期懲役、追徴金2205億ウォンが課せられ収監された(ただし、同年の金大中当選直後に特別赦免となり釈放された)。2021年11月、90歳で死去したが、国葬は行われなかった。