サトラップ
古代イランのアケメネス朝で中央から地方(州)に派遣された行政官。大王の分身として地方の統治に当たり、大王は王の目・王の耳を派遣して監督し、中央集権体制をつくった。
ペルシア帝国の地方行政官
アケメネス朝ペルシア帝国の最盛期のダレイオス1世(ダリウス大王)は、国内を20の州(サトラッピ)に分け、それぞれの州に地方長官であるサトラップをおいた。またサトラップの勤務状況を監視するために、中央から「王の目・王の耳」といわれる監督官を派遣した。ダレイオスの置いた20のサトラップ(ヘロドトスの『歴史』ではサトラペイア、行政区または徴税区といわれる)は、民族別に設けられ、それぞれ納税額が定められた。例えば、第1区はイオニア人などの地域で銀4百タラント、第2区はリディア人などの地域で5百タラント、・・・エジプトは第6区で7百タラントだった。バビロンなどの第9区からは銀一千タラントと500人の去勢された男児を納めるというのもあった。なお第20区はインドで、砂金360タラントという。ペルシア帝国では納められた金銀を溶解して土製の甕に流し込み、甕一杯になると甕を壊して金銀の固まりにし、貨幣が入用になると必要な量だけ鋳造した。なお、ペルシア本国(ペルシス)は課税されず、またアラビア人など周辺民族で献上品だけを納めるものもあった。<ヘロドトス『歴史』巻三 89-96節 岩波文庫(上) p.345-349>
このサトラップの制度は、アケメネス朝滅亡後のヘレニズム諸国であるセレウコス朝シリア、およびパルティアにも継承された。
サトラップの実際
上述のアケメネス朝ペルシア帝国のサトラップ制の説明は、あくまでヘロドトスが伝えるギリシア語の情報に依っている。しかし、古代ペルシアの直接的な資料である碑文や粘土板文書では、サトラップ制の全体像は明確になっていない。サトラップという名称はギリシア語のサトラペスに由来するが、それは古代ペルシア語の「クシャサ・パー・ヴァン」をギリシア語風に表記した語である。それはクシャサ=王権(王国)を保護する者、の意味である。サトラップが実際に管轄する行政区(サトラペイア)はヘロドトスは20と言っているが、実際にはどのように分割され、幾つあったかは不明である。<青木健『ペルシア帝国』2020 講談社現代新書 p.58/阿部拓児『アケメネス朝ペルシア』2021 中公新書 p.96>またヘロドトスは、サトラップ制をダレイオス1世が創出したと述べているが、帝国をいくつかの太守領(州)に分け、太守(州長官)を置き、中央から監視官を送るという支配機構は、アケメネス朝に先行するメディアや、さらにアッシリア帝国にも見られるので、起源はさらに遡る。アケメネス朝時代にはその規模が大きくなり、重要性が増大したとみるべきである。<足利惇氏『ペルシア帝国』世界の歴史9 1977 講談社 p.110>
(引用)ダレイオス1世は、キュロス大王によって建てられたペルシア帝国を、整備し完成させたといえるだろう。大王のもとにすべての権力や情報が集まったという点で、それは中央集権的であった。しかし、各地方はアッシリアの軍管区制にならって任じられたサトラップが支配し、かなりの自律性を持つ約20から29のサトラペイアに分けられていた(同書p.112~113にその一覧表がある)。サトラップは原則としてペルシア人が任命されたが、そうでないところもあった。それぞれのサトラップは、毎年きめられた貢ぎ物(税)をおさめ、大王の戦争には軍隊を率いて参集するという義務を負ったが、領内は独自の伝統や文化に基づいて自由に統治できた。もちろん自由とはいっても、「王の目」や「王の耳」といわれた王直属の官僚によって常に監視されていた。<山本由美子『オリエント世界の発展』世界の歴史 4 1997 中公文庫版 2009 p.133-134>