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テミストクレス

アテネの軍人で政治家、軍人。ペルシア戦争でアテネ海軍を指揮してサラミスの海戦を勝利に導いた。しかし陶片追放によってアテネを追放されてしまった。

サラミスの海戦でアテネ海軍を指揮

 前5世紀前半のアテネの軍人・政治家で、ペルシア戦争でギリシア軍を勝利に導いた立役者であったが陶片追放によってアテネを追放された。まず前493~2年のアルコンをつとめ、アテネの外港を築いてその商業の発達をうながし、アテネ発展の基盤をつくった。前483年にアテネ近郊のラウレイオン銀山に新たな鉱脈が見つかると、そこで得られた富を、ペルシア軍の来襲に備えて、三段櫂船(軍船)を建造に充てた。この三段櫂船は前480年のサラミスの海戦でテミストクレスの指揮の下で大活躍し、ペルシア海軍を破った。

陶片追放

 このようにテミストクレスはアテネにとって大きな貢献をした人物であったが、前470年代の末に陶片追放にされてしまった。アテネ市民は功績ある人物でも、独裁者になる恐れがあると考えたのであり、民主政を守る市民の強さが表れている。なおテミストクレスは、マケドニアを経てペルシアに渡り、ペルシア王アルタクセルクセスによってマグネシア地方の長官に任命され、その地で没したという。<桜井万里子ほか『ギリシアとローマ』1997 世界の歴史5 中央公論新社>

Episode プルタルコスのテミストクレス評

 プルタルコスは『英雄伝』で、テミストクレスについてこう評している。
(引用)彼にまつわる語り草から判定するかぎり、テミストクレスは生まれつき名誉を競う心のきわめて強い人であった。例えば、市民たちによって提督に選ばれた折のこと、公私の仕事を何一つ順番にさばいていこうとせず、後から次々に生ずる仕事を全部出航予定の日まで引き延ばしたが、それは沢山の問題を一度に片付け、しかも多種多様の人物と面談するということで、自分が大いに力量のある偉い人間だと見せかけようとしていたのである。
 また、テミストクレスが陶片追放に処せられたことについては、こう書いている。
(引用)そこで人々は、テミストクレスの声価と、その右に出る者のない勢いを挫こうとして彼を陶片追放に処した。その実力が重すぎて民主的平等に不釣合だと思われた人物には、それが誰であろうと、こうした手段がとられる習わしであったのである。つまり陶片追放は刑罰ではなく、嫉妬心の慰撫・軽減である。・・・<『プルタルコス英雄伝』上 1996 村川堅太郎他訳 ちくま学芸文庫 p.175,182>