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陶片追放/オストラシズム/オストラキスモス

古代ギリシアのアテネで行われた僭主の出現を防止する制度。オストラコン(陶片)を用いた投票制度なのでオストラシズム(オストラキスモス)とも言う。アテネで前5世紀前半に実施された。

僭主の出現を防止

陶片追放
オストラシズムで用いられた陶片
 古代ギリシアのアテネで行われた、ポリスにとって独裁者となる恐れのある人物を投票によって追放するという追放制度もクレイステネスの改革の一環として創設されたものと思われる。この制度によって市民は僭主になる恐れのあるものを投票にかけ、投票数6000に達したものを10年間追放することができた。この投票は陶片(オストラコン)に記名して行われるので陶片追放、オストラシズム(ギリシア語ではオストラキスモス)という。 → アテネの民主政
 追放すべき人名を書いて投票するということは、当時のアテネ市民が一般に文字が書けたこともわかる。また、効果のほどは疑問との考えもあるが、実際にこれによって追放された実例は12例ほど知られている(ペルシア戦争の英雄テミストクレスなど)。アテネのアゴラ博物館には陶片の実物を見ることができる。しかし、この制度はあくまで僭主の出現を防止するためのもので、罪を裁くものではない。公職者に対する弾劾裁判の制度が整備された前5世紀の後半には陶片追放は行われなくなる。<橋場弦『丘のうえの民主政』1997 東大出版会 p.122 などによる>
貝殻追放は誤訳 日本ではかつて、「貝殻追放」という言い方がされたが、それは誤訳。水上滝太郎の評論集『貝殻追放』(1919)、中勘助の詩「貝殻追放」などで使われ、一般化した。しかしこれは陶片を指すギリシア語オストラコンに貝殻の意味もあったから生じた誤訳である。水上は、無知な群衆が有徳の君子を追放する「多数の横暴」と解釈しており、日本ではほぼそのように理解された。しかし、陶片追放は「さまざまな点でなお不可解な制度」であり、現在の「僭主の出現を予防するための制度」という定説もゆらいでいる。また陶片追放は裁判ではないので国外退去は刑罰ではない。市民としての名誉を奪わず、アテネから一定期間遠ざけるのが本旨だから、「追放」というのも厳密に言えば正しくない。<橋場弦『古代ギリシアの民主政』2022 岩波新書 p.94-95,97>
※私たちは、「陶片追放」とはギリシア語としての「オストラキスモス」の訳語で、「前5世紀の前半、古代ギリシアのアテネにおいて、市民が僭主の出現を防止するために国外退去とする人物を選出する制度」という理解でよいだろう。橋場氏の論考などで、まだ謎の多い制度であることとともに、むしろ民主主義政治のありかたを考える材料として知っておきたい。

クレイステネスの改革の一環

 アリストテレスの『アテナイ人の国制』では、「クレイステネスは大衆を狙って他の新たな法を設け」たとして、その一つとしてオストラキスモスを挙げているが、その実施はクレイステネスがアルコンに就任した前508年よりずっと後、ペルシア戦争での「マラトンの戦いに勝ち、勝利の後2年を置いてすでに民衆が自信を得ていたとき(前488/7年)、ここに至ってはじめてオストラキスモスに関する法を用いた」としている。そこでこの制度の制定をクレイステネス時代より後とする説もあるが、訳者の村川健太郎氏の註によると、現在ではその制定は他のクレイステネスの改革と同じく前508年とするのが定説となっているとのこと。
 アリストテレスの同書には、はじめてオストラキスモスが実施されて追放されたのは前488/7年、ペイシストラトスの親族の一人ヒッパルコス(子ではない)だとしており、その他メガクレス、クサンティッポス(ペリクレスの父)などの名も挙げている。村川氏の註によると、オストラキスモスは前480年代が最も盛んに行われたが、次第に僭主政の防止というより政争の手段として悪用されるようになり、前417年を最後に実施されなくなった。<アリストテレス/村川堅太郎訳『アテナイ人の国制』岩波文庫 p.46-48 註p.183,229>

陶片追放の実際

 現代の日本からみてわかりずらい陶片追放の制度であるが、橋場氏の著作などをもとにその実際をみてみよう。<橋場弦『古代ギリシアの民主政』2022 岩波新書 p.95-96>
  • 投票日の決定 まず冬の民会でその年に陶片追放の投票を行うかどうかを話し合う。行うと決まれば春にアゴラで投票が行われる。ただし候補者が指名されることも、公開討論も行われず、投票の日時と場所だけが公表される。
  • 投票 投票当日、アゴラに集まった市民は、国外に退去させたい一人の名を陶片に刻む(筆で書いてもよい)。紙の無かった当時は陶片が最も手ごろな書記材料だった。
  • 開票 九人のアルコンが評議会と協力して開票作業を行う。開票の結果、国外退去になる人物一名がきまる。その基準は投票総数が6000票以上の場合の最多得票者とされる史料と、一人で6000票以上獲得した最多得票者とする史料の二つがあるが、現在は前者が通説となっている。
  • 決定 基準数を超えた人物は、10年間国外退去を命じられる。ただし公民権は奪われず、財産の用益権も認められる。民会が承認されれば10年未満でも帰国が許された。

従来説への疑問と新説

 陶片追放は何のための制度であったか。従来は、アリストテレスの著作として伝えられた『アテナイ人の国制』などにより、クレイステネスが「民衆から過度に声望を集めた人物が僭主になることを防ぐため」に制定した、というのが定説になっている。しかしこの説明では、民衆に声望ある人物を同じ民衆が追放するはずはないだろうし、そのような有力者にとっては反対派を追放する手段ともなることなど、少しおかしい。そこで従来説に代わって最近有力になった学説に次のようなものがある。
(引用)有力者どうしの対立の解決を民衆に委ね、どちらか一方を穏便に政界から退去させることで、政争が破壊的な内乱にエスカレートするのを未然に防ぐことが目的であったとする。そう考えれば、国家の統合を最優先し、貴族のあくなき党争に終止符を打とうとしたクレイステネスの意図にも符合する。<橋場弦『古代ギリシアの民主政』2022 岩波新書 p.97-98>

Episode プルタルコスの伝える陶片追放

 プルタルコス『英雄伝』(『対比列伝』)のアルキビアデス伝には、陶片追放についての記載がある。アルキビアデスはアテネの将軍の一人でマラトンの戦いでも活躍したが、テミストクレスと対立し、その一派の運動によって陶片追放にかけられて一時アテネを追放された。後に許されて復帰し、プラタイアの戦いでギリシアを勝利に導いた人物。
(引用)この陶片追放の制度だが、ざっといって、つぎのようなものであった。まず町衆のひとりびとりがオストラコンとよばれる陶器のかけらに追放しようと思う町のものの名まえを書き込む。そして、それを広場(アゴラ)にある手すりでまわりをかこんだ投票の場所にもっていって投げ込む。それがすむと、アルコンたちが、はじめに投票総数をかぞえる。このばあい、もし投票者があわせて六千人に達しなければ無効になる。つぎに陶片に書かれた名まえをべつべつにえりわけ、そのなかでもっとも多く票を投ぜられたものが十年間の追放に処せられる。ただし、その財産の用益権はみとめられた。
 さてアテナイの人々がアリスティデスを追放しようとして、陶片に名まえを書いていると、あきめくらで田舎者まるだしの男がアリスティデスをただの行きずりの人と思いこんで、陶片をわたし、”ひとつ、これにアリスティデスと書いてくれんかの”と頼んだという。これにはアリスティデスもびっくりして、”アリスティデスは、あんたに、なにかひどいことでもやったのかね”とたずねると、”いや、なんにもありゃしねえ。でえいち、おらあ、そんな男知りもしねえだが、ただ、どっこさいってもよ、『正義の人』『正義の人』って聞くもんでさあ、腹が立ってなんねいだからよ”と言った。これを聞いてアリスティデスは一言もこたえず陶片に自分の名を書くと、そのまま男にもどしたそうだ。<『プルタルコス英雄伝』上 安藤弘訳 ちくま学芸文庫 p.214>

陶片追放された人々

 実際に陶片追放された人物は、前487年から前415年まで、15例(うち2件は同一人物)が確認されている。ペルシア戦争中には旧僭主派やペルシアとの内通を疑われた人物が、しばしば陶片追放されている。著名な人物にはペリクレスの父クサンティッポス、「正義の人」といわれた清廉な人格で知られたアリスティデス、サラミスの海戦を勝利に導いた功労者テミストクレスなどがいる。しかし、政治家とは思えぬ人物や、なぜ追放されたかさっぱりわからない「お人好し」といわれたメノンなど、謎としか言えない例もある。
組織票 1937年にアクロポリス北斜面の井戸跡から発見された「アクロポリス陶片」はいずれも酒杯を砕きその円い台を投票用の陶片としたもので、中には総計190個を14人の手で書いた、一人一票の決まりに反した組織票とも思われるものも見つかっている。これらが井戸から見つかったのは、実際には使われず人目を憚って棄てられたものらしい。

陶片追放と民主主義

 見つかった陶片には、まちがえたつづりを訂正したものがある。書き直しは手慣れた筆蹟であり、代筆者がいたらしい。当時の一般市民のアテネでは、公教育制度がなかったためおそらく15%程度と推測され、読み書きできなかった市民も多かった。むしろ識字能力が不十分であっても投票できた、という事実が重要である。
 1966年以降、ケラメイコス遺蹟から厖大な数の陶片が発掘され、研究材料はっきょに増大、総数は1万1千点以上が公表され整理されている。陶片に記銘された人物は総計170名。その80%以上が1個または数個しか発見されていない、いわば泡沫候補である。大半が無名人で、これは私的怨恨などの動機で票を投じた市民も少なくなかったことを示す。なかには余計な落書きのある陶片も目立つ。中には「オレは飢饉だけを追放したい」と書かれたものもある。これは無効票とされただろうが、常に飢えの恐怖にさらされていた市民の訴えを知ることができる。
 これらの多数の陶片を見て、橋場氏は陶片追放の意義を次のようにいっている。
(引用)陶片追放は、陶片というモノによって民衆の意思をはっきりと可視化し、エリートに突き付ける手段として、きわめて有効であった。自分の名前の刻まれた陶片が、目の前で山と積み上げられてゆくのを見たエリートは、国家権力が民衆の手中にあるという現実を、あらためて思い知らされたのである。
 党争のエスカレートを未然に防ぐのが目的であったとすれば、陶片追放は本来の役目をまことによく果たした。党争は、政敵本人のみならずその一族の追放や殺害、財産没収という深い傷を社会に残し、また排斥された側がやがて政権を奪還すると、今度は相手側を根こそぎ排斥するという復讐の連鎖を生む。その回避のため考え出された制度が、陶片追放であった。本人の財産没収や一族の追放をともなわず、また有為な人材はふたたび祖国に迎え入れた点にも、それはよく表れている。陶片追放は、政争がポリスに与えるダメージを最小限に抑え、市民団の統合と安定に寄与したと言うべきであろう。<橋場弦『古代ギリシアの民主政』2022 岩波新書 p.107-108>

最後の陶片追放 前415年

 陶片追放が最後に行われたのは、ペロポネソス戦争末期の前415年春であった。この時アテネ軍のシチリア遠征の是非をめぐって積極派のアルキビアデスと慎重派のニキアスが対立、両派はたがいに相手を追放しようと票集めに奔走した。ところが投票直前になって突然両派は妥協し、逆に組織票をまとめて、ヒュペルボロスという小物の大衆政治家を追放した。事情をよく知らぬ一般市民から見れば、竜頭蛇尾の結末である。
 この事件を最後に、アテネの市民は二度と陶片追放の投票を行わなくなった。伝統ある陶片追放がつまらぬ人物の追放に用いられたことに嫌気がさしたからだという(プルタルコス『対比列伝ニキアス伝』11章)。ただし、制度として廃止することはせず、毎年冬に陶片追放を民会にはかる慣例は、前4世紀末まで続いた(『アテナイの国制』43章)。  市民が「嫌気がさした」というのは後世の想像であろうが、無謀なシチリア遠征が悲劇に終わったことで、それを阻止できなかったことに陶片追放という制度の無力を覚ったというのが真相に近いだろう。
 終始一貫無言で行われ、政治の争点が言論の形で表現されない陶片追放は時代遅れの制度となっていた。すでに世の中は弁論政治の時代に入っており、政敵を訴えて法廷に引き出し、弁論で政争に決着を付けるという手法が、前5世紀後半から本格化していた。弾劾裁判や「違法提案に対する公訴」がそれであり、いろいろな点で古拙な制度と言える陶片追放は、事実上役割を終えた。<橋場弦『前掲書』 p.145-146>  前399年に起こされたソクラテス裁判は、裁判員500人の民衆裁判で行われた。ソクラテスの裁判と処刑は、歴史的に見るならば、アテネの民主政の再出発という時代背景から理解しなければならない。