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市民権法(アテネ)

古代ギリシアのアテネで、前451年にペリクレスのとき成立した市民権の規定。両親がアテネ生まれである場合のみにアテネ市民権を認めるとした。

 「ペリクレスの市民権法」と言われ、アテネの民主制全盛期の前451年に、ペリクレスによって民会に提案され、可決された。アテネ市民は、両親ともアテネ人である嫡出の男子(嫡子)のみに限定するというもの。嫡出とは正妻の子の意味であり、内妻の子(庶子という)は除外された。これ以前は父親はアテネ市民でなければならなかったが、母親は外国人でもよかったのを改め、市民権をより閉鎖的にした。それより前、前508年には、市民の家督(オイコス)を相続できるのは正妻の子(嫡子)でなければならず、内妻の生んだ子(庶子)には相続権はないとされていたので、このペリクレスの市民権法によって、アテネの市民は、アテネ市民を両親とする嫡男子のみに限定されることになった。
 なお、市民権を持つアテネ人の母や妻、娘などの女性は、自由人ではあるがオイコスの家長を後見人として結婚などでその意向に従う必要があり、さらに参政権や裁判を起こす権利がないなど、大きな制約を受けていた。 → アテネの民主政/デモクラシー参照。
 アテネには、自由民ではあるが、市民権のないメトイコイ(在留外人)の男女がいた。彼らは、民会への参加などの参政権は認められず、不動産も所有できなかったが、男性が兵役の義務をはたすこと、、男女とも定められた人頭税を支払うことでポリスの中で手工業や商業に従事することはできた。そして市民の家督の家庭内労働や、農園の労働は、売買の対象となる奴隷(の男女)が担っていた。 → ポリスの市民ポリスの貴族ポリスの平民メトイコイ(在留外人)・奴隷制度

Episode ペリクレスのジレンマ

 ペリクレスには息子が二人いたがいずれも疫病で死んでしまった。前妻を離婚したペリクレスは、アスパシアという才色兼備のヘタイラ(遊女)と同棲し、男の子をもうけた。しかしアスパシアはミレトス出身でアテネ人ではなかったので、その子も市民権法ではアテネ市民にはなれないことになる。こうなると跡継ぎがいないことになり、ポリス社会では基盤が無くなってしまう。そこでペリクレスは民会に訴え、特例で市民権法の解除を求めた。自分の提案で成立した法律に、自ら反することになったわけだが、民会はペリクレスの功績にかんがみ、特別に認める決定を下したという。<村川堅太郎・長谷川博隆ほか『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学術文庫などによる>