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メトイコイ/在留外人

古代ギリシアのアテネで、他のポリスから移住した在留外人。自由人であったが市民権はなかった。解放奴隷もメトイコイとされた。

 古代ギリシアの代表的ポリスであるアテネでは、ギリシア人で他のポリスの出身者の住民を在留外人(在留外国人)と呼び、自由民として扱われたが、市民権はなく、民会への参加などの参政権は認められなかった。アテネでは1ヶ月以上滞在した外国人はメトイコイとして登録され、所定の人頭税(メトイキン)を払えば、法的保護を受けて在留できた。また、奴隷が解放された場合も、メトイコイとして扱われた。メトイコイはポリス内での土地所有は認められなかったので、主として商業や芸術、学問に従事した。哲学者アリストテレスも、アテネにおいてはメトイコイであり、市民権はなかった。ただし、裕福な者も多く、武装を自弁して兵士となり、アテネの防衛に参加した。
 → ポリスの市民市民権法(アテネ)アテネ民主政

アテネの在留外人

 古代ギリシアの代表的ポリスであるアテネは、市民権を有する市民(18歳以上の男子)は3万から4万くらい、その家族をあわせて15万くらいだったと想像される。在留外人の人口を割り出すのは困難であるが、ペルシア戦争後のアテネはデロス同盟の資金のあつまるところだったので、多くの在留外人が集まったことはあきらかである。
(引用)ポリスの封鎖性のあらわれであるが、彼ら(在留外人)は土地はもちろん家屋の取得権も認められず、したがって商業、金貨、手工業、日雇労働でくらすほかはなかった。従軍義務があり、人頭税を一律にかけられ、非常時の財産税も市民と同じで、まことに割にあわないが、アテネの魅力は多数の外人をひきよせた。そのなかには百人をこす奴隷をつかってさかんに楯の製造販売をしたものもあり、両替、金貨で巨万の産をなしたものもでた。
 しかしアテネにあつまった外人には自由業者、「文化人」もあった。プラトンはアテネの名門の出であるが、その弟子でアテネに学塾を開いたアリストテレスは、エーゲ海北岸のスタゲイラという小さなポリスの医者の子であった。ギリシアの学問を集大成したこの碩学も、その偉さのゆえにアテネ市民に列せられるということはなく、解放された奴隷といっしょに在留外人の身分にとどまった。<村川堅太郎『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学術文庫 p.98>
 メトイコイに課せられる人頭税をメトイキンといい、男性は年額12ドラクマであった。女性はその半額の6ドラクマとされた。メトイコイは奴隷身分ではなく、市民権はないが自由民であり、しかも市民女性(アテネ市民の妻、娘)が市民男性を後見人としなければならなかったのに対して、そういった制限がなく、男の後見を受けずに独立して自営の商業活動をおこなう者などもいた。メトイコイの女が男性の半分とはいえ、人頭税を払わなければならなかったの前提となっていた。<桜井万里子『古代ギリシアの女たち』1992 中公新書 p.167>