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奴隷/奴隷制度(古代ギリシア)

古代ギリシアのポリス民主政を支えた社会体制。家内奴隷と工業奴隷の区別があったが、ローマに較べて小規模であった。

ギリシアの奴隷
前6世紀 ギリシアの鉱山で働く奴隷
 古代ギリシアのポリス社会の平均的な市民は2~3名の家内奴隷を所有し、また手工業の仕事場や、鉱山では、集団で労働させる場合もあった。特に有名なのは、アテネの郊外のラウレイオン銀山の奴隷労働である。しかし、後のローマ帝国の大土地所有(ラティフンディア)のような、大規模な奴隷制度は無かった。奴隷は戦争での捕虜や、商品として外地から輸入され、貨幣経済の発展に伴って債務の返済ができずに奴隷となった場合もあった。奴隷も主人によって解放され場合があり、解放されると在留外人(メトイコイ)同じ扱いとなり、自由にはなるが、市民権は認められなかった。スパルタではアテネよりも奴隷制が発達し、ヘイロータイという奴隷身分が存在した。 → ローマの奴隷  中国の奴隷/奴婢

資料 アリストテレスの奴隷制度肯定論

 古代ギリシアにおいては、奴隷の存在は特に疑問視されることはなく、アリストテレスもその著『政治学』で、ポリス市民が完全な人間であり、奴隷は支配されるように生まれついた不完全な人間であるから、市民が奴隷を所有することは当然のこととしている。またそのような奴隷を獲得する戦争は、狩猟で獣を捕らえるのと同じ自然な行為だ、と言っている。

アテネにおける奴隷

 アテネの奴隷の数については学者の見解が分かれているが、10万前後と見るのが穏当なところである。奴隷はその使役の目的によって召使い的な家内奴隷と生産のための奴隷とに大別される。ヘシオドスの詩や古典期のアテネの喜劇などから推せば、中以上の市民は二、三の家内奴隷をもっていた。彼らは重装歩兵の出陣に従者として武具、食糧をはこび、畑では農耕に従う。ただ、ギリシアでは、後のイタリアでのような何百もの奴隷をつかう大土地経営(ラティフンディア)は発展しなかった。
エルガステーリオン  工業に働く奴隷には、別居奴隷とよばれて収益の中の一定額を主人に貢納するものと、主人が所有し奴隷頭(がしら)が管理する仕事場(エルガステーリオン)で何十人もいっしょに働くものとがあった。ラウレイオン銀山の採鉱も奴隷制にたち、一千人もの奴隷を所有してそれを採掘者に賃貸していた富裕者のことが伝わっている。しかし大きなエルガステーリオンは例外的で、経営の永続性に乏しく、アテネの工業はせいぜい少数の奴隷しかもたぬ職人の小経営がおもだった。<村川堅太郎・長谷川博隆ほか『ギリシア・ローマの盛衰』1993 講談社学術文庫 p.98-99>

参考 アテネの奴隷の数

(引用)いったい、前5世紀ないし4世紀のアテネではどのくらいの数の奴隷が使役されていたのだろうか。盛衰はむろんあろうし、統計とは縁のない世界なので確かなことはわからない。学者による数字の開きはかなり大きい。ここでは仮に、最盛期に関し、多目に見て8万ないし10万、アッティカ全人口の約三分の一という数字を挙げておこう。この数字はきわめて高いとみなくてはならない。
 ペルシア戦争以後、アテネには、トラキア、小アジア奥地のフリュギア、黒海北岸のスキュティアなどから非ギリシア系の奴隷が大量に輸入され、市民たちの生活のあらゆる部門において不可欠の存在となった。農業や家内の雑事だけでなく、流通経済の発展にともない、商業や手工業、第4世紀に入って両替商をもちに成立したと考えられる初歩的な銀行業、それに鉱山業といった諸分野で、労働の重要な担い手として盛んに使われるようになるのである。
 前5,4世紀のアテネは、前3世紀から後2世紀にかけてのローマとならんで、世界史上もっとも典型的に奴隷制度の発達を見た社会であった。この時代のアテネでは、市民の間での自由と平等が、完全に近い形で実現されている。ほかならぬそのアテネで奴隷制度の典型的な成立を見た事実は、ポリス民主政が「支配」を不可欠の存立条件としていることを、別の側面から物語るものといわなくてはならない。<伊藤貞夫『古代ギリシアの歴史 ポリスの興隆と衰退』2004 講談社学術文庫 p.273-274>