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アッピア街道

前312年、古代ローマで、ローマから南イタリアに至る軍用道路として建設された道路。

 中部イタリアの都市国家であったローマは、重装歩兵市民団を中核とする共和政を形成させながら、その支配領域を拡張する半島統一戦争を展開した。その過程で、南イタリアのサムニウム人に対する征服活動がサムニウム戦争として行われたが、その際にローマ軍を迅速に南下させるための道路建設が必要となった。 → アッピア街道の地図

征服活動のための軍用道路

 戸口監察官(ケンソル)のアッピウス=クラウディウスが指揮して、前312年(第2次サムニウム戦争の時期)に建設したといわれる。当初はローマからカプアまでであったが後にプリンディシ、さらに半島最南端のタレントゥムまで延長され、ギリシア系植民都市(マグナ・グラエキア)に対する征服活動が進められた。
 アッピア街道は幅8メートルの舗装道路で、馬の引く戦車を走らせるための軍用道路として建設され、ローマ文化の実用的な特徴を示す土木建築の遺構となっている。その後もローマの南イタリア支配の幹線道路とされたアッピア街道は一部が現存し使用されており、このような道路がローマ支配地域にはりめぐらされ、「すべての道はローマに通ず」といわれた。

Episode 盲目の監察官アッピウス

 アッピウス=クラウディウスが就任した戸口監察官とは、前443年に設置された重要官職の一つで、戸口調査(5年ごとに行われた国勢調査)にもとづいて市民の納税額と兵役期間を定める任務であった。また公職者の不正やプライバシーの監視もその権限にふくまれていたので大きな権威があった。アッピウス=クラウディウスは「盲目の監察官」として知られ、前312年にはローマに上水道を建設、さらに同年、ローマからカプアまでラティウム地方の沼沢地帯を一直線に切り開いて街道を開いた。「アッピア街道」はその名に由来する。
 アッピウス=クラウディウスはコンスル(執政官)にも就任し、盲目となったが、ピュロスとの戦争では講和に反対し、元老院で「ローマは戦勝の敵と折衝してはならない」と演説した。
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書籍案内

藤原武
『ローマの道の物語』
1985 原書房

NHKシルクロード
『すべての道はローマに通ず』
1989 NHK