タレントゥム
イタリア半島南端にあるギリシア人の植民都市で、現在のターラント。前272年にローマに服属し、ローマの半島統一が終わった。
ターラント GoogleMap
タレントゥムは、スパルタが建設した唯一の植民市であるが、前5~前4世紀、南イタリアはマグナ・グラエキア(“大ギリシア”の意味)といわれたほどギリシア人の移住が多く、ネアポリスやシラクサなど、沢山の植民市がつくられたが、イタリア半島南部でのギリシア系都市の中心として繁栄したのがタレントゥムであった。
イルカに乗った青年タラスが創建
タレントゥムには次のような都市建設伝承がある。タレントゥムを創建したのはタラスという若者であった。タラスは海神ポセイドンの息子であったが、難破船から父の使いのイルカに助けられ、イルカに乗ってたどり着いた場所に町をつっくった。それがタレントゥムであるという。前5世紀前半にタレントゥムで鋳造された貨幣には、イルカに乗った青年タラスが描かれている。<『貨幣が語るローマ帝国史』2018 中公新書 p.12-13>ローマに服属する
中部イタリアに起こった都市国家のローマは、その勢力を南下させ半島統一戦争を進めたが、その軍用道路として造られたアッピア街道もタレントゥムへの延長が企てられた。 前3世紀にローマの勢力がタレントゥムに迫ると、タレントゥムは本国ギリシアのエペイロス王国ピュロス王に援軍を求めた。ピュロス戦争 イタリア半島に勢力を伸ばそうと考えていたピュロス王はマケドニアの象部隊も動員して来援し、前280年のヘラクレイアの戦い、翌年のアスクルムの戦いで連続してローマ軍を破った。しかし、ローマまで北上することはできず、方向を転じてシチリア島を攻撃、そこではカルタゴ軍と戦った。結局、ピュロス王は本国に引き揚げたため、タレントゥムを救援するという目的を達成することはできなかった(このような実利を得なかった勝利を「ピュロスの勝利」という)。
その結果、ローマ軍の南下は再開され、前272年にはタレントゥムもローマに服属した。タレントゥムのローマへの降服はギリシア植民市の中で最も遅く、これによって、ローマのイタリア半島統一戦争が終わった。
ローマはギリシア人植民都市を征服したことによって、ギリシア文化に直接触れることとなり、その強い影響を受けることとなる。前244年には、軍用道路アッピア街道がタレントゥムまで延伸された。
第2回ポエニ戦争 第2回ポエニ戦争ではカルタゴのハンニバルがイタリア半島を南下し、最南端のタレントゥムに達し、前214年に占領した。ハンニバルはシチリア島とカルタゴ本国との連絡を取る上で、タレントゥムを重視した。しかし、前212年にはシチリア島のシラクサがローマの手に落ち、このタレントゥムも前209年にローマ軍によって奪還された。これを機に、イタリア半島におけるハンニバル軍の勢いは後退していく。
再びローマ領となったタレントゥムは、ローマの地中海進出の重要な港として栄えたが、9世紀以降はたびたびイスラーム勢力の侵攻を受けることとなる。