戸口監察官/監察官
古代ローマで市民の財産を調査する官職。前312年、戸口監察官アッピウスは非土地所有者もトリブス(区)に登録する改革を行った。
ケンソル censor のことで戸口調査官とも訳される。古代ローマの貴族共和政時代の前443年に始まるとされる官職で、本来は5年に1回の戸口調査を主任務とし、市民の財産を調査する任務であったが、次第に権限が大きくなり、元老院議員の適格性の審査、風紀取り締まり、国家財政の監察なども任務とするようになって、単に監察官ともいわれた。定員は2名で、任期は18ヶ月(1年半)。ローマ共和政においては、任期1年であった執政官(コンスル)による統治を補い、元老院を牽制する重要な役割をもっていた。
この非土地所有者をトリブスの所属員としたことで、彼らにも平民会における投票権が付与されたことは、各トリブスにおける重装歩兵農民を中核とする土地所有者の従来の優位が崩れ、ローマが「重装歩兵ポリス」から「民主政市民ポリス」に一歩近づくことを意味していた。この改革の翌年にはローマの艦隊司令官職がはじめて設置されており、非土地所有市民が艦隊の漕ぎ手となってそれを支えたと考えられる。ギリシアのアテネにおいてペルシア戦争で下層市民が三段櫂船の漕ぎ手として活躍し、民主政が進展したことを想起させる。
しかし、前304年に同じく戸口監察官となったクイントゥス=ファビウスらは、非土地所有者がトリブス所属をローマ市の4トリブスだけ(当時の全トリブス数は31)に限定した。これはアッピウス=クラウディウスの改革に対する重装歩兵農民の抗議の結果であったらしく、非土地所有者への市民権付与は原則にとどまり、実質的には制限されたということであった。<弓削達『ローマ帝国論』初刊1966 再刊2010 吉川弘文館 p.67-71>
アッピウス=クラウディウスの改革
前312年に戸口監察官となったアッピウス=クラウディウスは、当時激戦が続いていたカンパニア地方とローマを結ぶアッピア街道や、最初のローマの水道アッピア水道をはじめ、多くの土木・建築事業を国家の手で行った有名な政治家であるが、ローマの財政的出費を補うために、土地所有者以外の市民(商人や解放奴隷)をトリブス(平民会の構成単位となるローマ市民の居住区)に登録し、市民の財政負担力を動員した。この非土地所有者をトリブスの所属員としたことで、彼らにも平民会における投票権が付与されたことは、各トリブスにおける重装歩兵農民を中核とする土地所有者の従来の優位が崩れ、ローマが「重装歩兵ポリス」から「民主政市民ポリス」に一歩近づくことを意味していた。この改革の翌年にはローマの艦隊司令官職がはじめて設置されており、非土地所有市民が艦隊の漕ぎ手となってそれを支えたと考えられる。ギリシアのアテネにおいてペルシア戦争で下層市民が三段櫂船の漕ぎ手として活躍し、民主政が進展したことを想起させる。
しかし、前304年に同じく戸口監察官となったクイントゥス=ファビウスらは、非土地所有者がトリブス所属をローマ市の4トリブスだけ(当時の全トリブス数は31)に限定した。これはアッピウス=クラウディウスの改革に対する重装歩兵農民の抗議の結果であったらしく、非土地所有者への市民権付与は原則にとどまり、実質的には制限されたということであった。<弓削達『ローマ帝国論』初刊1966 再刊2010 吉川弘文館 p.67-71>
カトーの戸口監察官就任
ローマ共和政のポエニ戦争の時代、政治家、軍人、弁論家として活躍し、清廉な生活をしたことで知られるカトー(大カトー、前234~前149)は戸口監察官に立候補して当選した。(引用)コンスル職に就いてから十年後にカトーは戸口監察官に立候補した。この職はいわばあらゆる栄誉の絶頂であり政治生活の終点であって、ほかにも様々な機能があったが、風俗と人々の私生活を検察する役であった。ローマ人は結婚にせよ、子供をつくることにせよ、生活様式にせよ、饗宴にせよ、それを各自の欲望と選択に委せて批判や検察を加えずに放任するのはよくないと考えていた。かえってかような点にこそ公然たる政治的行動以上に個人の性格が観察されると見なし、人が快楽を追ってローマ固有の伝統的生活を踏み外すのを防ぐための番人、警告者、懲罰人としていわゆる貴族(パトリキ)から一人と平民(プレブス)から一人を選んでいた。馬を取り上げたり、放縦な生活を送る者を元老院から除名したりする権限を認められたこの人たちをローマ人は戸口監察官(ケンソル)と呼んでいた。彼らはまた財産の評価の申告を受けて監督し、また登録簿において家柄や参政権を差別し、その他にもこの役には大きな権限があった。<プルタルコス/村川堅太郎訳『プルタルコス英雄伝』中 ちくま学芸文庫 p.276>無名の家柄のカトーの立候補に対し、高貴な生まれを自覚する貴族たちは7人もの対立候補を立てた。カトーはひるまず「国家は大掃除を必要とすると叫び、多数の市民にもし正気ならば最も甘い医者ではなくて、最もきびしい医者を選ぶようにと求めた。」その結果、パトリキで同じ考えのヴァレリウス・フラックスと共にカトーが当選した。
参考 モンテスキューの評価
18世紀前半のフランス啓蒙思想を代表するモンテスキューは、その『ローマ人盛衰原因論』(1734)で、戸口監察官に言及し、評価している。(引用)私はここで、ローマの政府を維持してゆく上に大いに役立った一つの政務官職について語っておかねばならない。それは戸口総監(ケンソル)のことである。この官職は、戸口調査を行ない、さらに、共和国の力は規律、道徳の厳格さ、そして、ある種の慣習の不断の実行に存していると考えられたから、法律が予見できず、通常の政務官には罰する権限のない不法行為を懲戒した。・・・ローマでは、危険な新しい事物を持ち込み、公民の心や精神を変え、また、敢えてこの言葉を使うならば、公民の永続性を阻害するあらゆるもの、すなわち、家内的であれ、公共的であれ、あらゆる放埒は、戸口総督によって矯正された。彼らは、思うがままに元老院議員を追放し、騎士から公共体の支給で保有している馬を取り上げ、公民を他の地区や、さらには、特典なしに都市の貢祖を支払うべき階級に移すことができた。・・・<モンテスキュー『ローマ人盛衰原因論』1989 岩波文庫 田中治男・栗田伸子訳 p.93-94>