キリスト教迫害
ローマ帝国の帝政後期、皇帝崇拝のもとでキリスト教徒への弾圧が強まり、313年まで続いた。
ローマ帝国領内に広がったキリスト教に対し、ローマ帝国は他の宗教と同じように寛容であり、はじめはそれ自体を禁止することはなかった。しかし、キリスト教徒がローマ法を守らない(ローマの神々への供え物を拒否するなど)場合は罰せられた。また庶民の間にも、キリスト教徒は「人肉食をしている」などの誤解(聖餐式というキリストの血と肉を象徴するブドウ酒とパンを信者が食べる儀式が誤解された)されたり、奴隷も同じ信者として同席して会合していることを社会秩序を乱すことと恐れられたりするようになり、危険な宗教とみられるようになった。
ローマ帝国を通じ、迫害が続いたわけではなく、何度かの迫害の時期と、容認される時期があった。大きな迫害として知られているのが、1世紀中ごろの64年のネロ帝の迫害の時と、4世紀はじめ303年のディオクレティアヌス帝の迫害の時である。殉教 するものも多くなった。このような迫害にもかかわらず、下層民を中心としたキリスト教徒はローマ領内のカタコンベに隠れて信仰を守り、徐々に広がっていった。
ようやく313年にコンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教が公認され、ローマ帝国による迫害は終わり、ついに392年にテオドシウス帝によってキリスト教の国教化が行われるに至る。
ローマ帝国を通じ、迫害が続いたわけではなく、何度かの迫害の時期と、容認される時期があった。大きな迫害として知られているのが、1世紀中ごろの64年のネロ帝の迫害の時と、4世紀はじめ303年のディオクレティアヌス帝の迫害の時である。
皇帝崇拝とキリスト教迫害
帝政後期には、皇帝崇拝が強要されるようになり、キリストのみを信仰するキリスト教徒はそれを拒否し、激しい迫害を受け、ようやく313年にコンスタンティヌス帝のミラノ勅令によってキリスト教が公認され、ローマ帝国による迫害は終わり、ついに392年にテオドシウス帝によってキリスト教の国教化が行われるに至る。
キリスト教徒の殉教
キリスト教信者はローマのコロッセウムなどの円形競技場で、社会への敵対者として引き出され、見世物として提供された。キリスト教徒は、我先に死ぬことを望み、殉教した。キリスト教徒の殉教は、キリスト教に敵意を抱いている群衆の目の前で意図的に死ぬことが重視された。そしてこの恐ろしい行為は、ローマ都市のもっとも重要な公共空間の一つを舞台に繰り広げられた。(引用)キリスト教徒の殉教が血なまぐさい見世物だったことは、疑いない。177年のリヨンでキリスト教徒の一群を死へと追いやった群衆は、キリスト教徒が拷問にかけられ、鉄の椅子で焼き焦がされ、雄牛に角で突き上げられ、飢えたライオンに四肢を食いちぎられるのを見て喝采をおくった。晴れ着に身をつつみ、社会の秩序に従って円形競技場にいならぶ観客全員が注視するなかでキリスト教徒にライオンを投げ与えることは、宗教的少数者に対するローマ多数派の権力をまざまざと見せつけることと思われたに違いない。……
だが、キリスト教徒自身にとっては、苦痛と死をもたらす殉教は、決して冷酷な敵に屈した意気消沈すべき敗北ではなかった。殉教は、むしろ勝利だった。ローマ人がみずからの社会を誇示し、おのれの優位を見せつけるために選んだまさにその場所で繰り広げられた殉教は、決然としてローマ人に対抗する意志を知らしめる劇的な行為にほかならなかった。帝国各地の都市に住むキリスト教徒にとって、殉教は信仰の強さを万人に示し、ローマの体制をあからさまに軽蔑する自分たちの信念を、力強く表明するものであった。殉教が有効な抗議行動となり、信者のよりどころとなるためには、大観衆の前でキリスト教の信仰を宣言し、恐るべき公開処刑を受けて記憶に留められることがもっとも重要なことであった。それが果たせなければ、この一見理不尽とも見える自己犠牲への渇望はとうてい是認できるものではなかった。<C=ケリー/藤井崇訳『一冊でわかるローマ帝国』2010 岩波書店 p.111-112>