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ネロ

1世紀中ごろのローマ帝国の皇帝。ローマの大火でキリスト教徒の迫害を行った。典型的な暴君として知られる。

第5代ローマ皇帝

 ローマ帝国の5代目皇帝ネロ(在位54~68年)は、カエサルやアウグスティヌスの血をひくユリウス=クラウディウス朝の最後のローマ皇帝。はじめの5年間は師のストア哲学者セネカの補佐もあって善政をしいたが、次第に狂気を発し、乱行が多くなる。64年7月ローマの大火が起こり、ネロが新しい都市計画を思いついて自らに火をつけたとの風聞がたつと、ネロはそれを打ち消すため、キリスト教徒を放火犯にしあげて大迫害を行った。さらに陰謀の疑いがあるとしてその師であったセネカを捕らえ死に至らしめた。
 最後の数年はローマを離れ、強い憧れを懐いたギリシアに渡り、アテネで演劇や音楽に熱中、67年には自ら古代オリンピックに参加した。このようなローマ皇帝らしからぬ行動から完全に皇帝としての人望を無くし、元老院も廃位を決定、ネロは追いつめられて68年、自殺した。当時、パレスチナのユダヤ人の反乱であるユダヤ戦争を指揮していた軍司令官ウェスパシアヌスを推す声が東方駐留の軍隊の中に起こり、元老院は次の皇帝に軍人に人気の高い彼を選任した。

Episode 母アグリッピナとの陰惨な関係

 アグリッピナ(アウグストゥスの孫娘を大アグリッピナ、その娘なので小アグリッピナとも言う)は先夫とあいだに生まれたネロを連れ子に皇帝クラウディウスの妃となった。権力欲の旺盛なアグリッピナはわが子ネロを皇帝にしようと、クラウディウスの娘オクタビアと婚約させ、次に何と皇帝クラウディウスの暗殺を計画した。ついにその毒殺に成功、どさくさのあいだにネロを即位させることに成功した。その時ネロは17歳、母に頭が上がらないながらも、元老院を尊重して共和政の伝統を守るなど積極的な姿勢を示した。ネロは政略結婚の相手であった正妻を嫌い、解放奴隷だった侍女のアクテを恋人にしたころから、次第に母離れが始まった。息子の離反に怒ったアグリッピナがひそかにクラウディウスの遺児ブリタニクスを皇帝に立てようと画策すると、その動きを察知したネロは、宮廷の晩餐でブリタニクスを毒殺する。母親の手段を息子が真似たわけだ。
 こうして二人のおぞましい愛憎関係は深みにはまっていく。やがてネロは、取り巻きのオトの妻ポッパイアを愛人にする。ポッパイアはネロを操るアグリッピナを遠ざけようとすると、アグリッピナ(40歳)はネロ(22歳)の寝室に現れ、二人は背徳の関係に入る。この噂はローマに広がり、ネロにとっても母親であり愛人の一人であるアグリッピナは重荷になっていく。ついにその殺害を決意し、ナポリの海上に誘い、船を沈めようとしたが失敗、アグリッピナは岸まで泳ぎ着き、別荘に逃れた。死んだと思った母が生きていたことに動転したネロは刺客を別荘に送ると、もはやこれまでと観念したアグリッピナは下腹を出し「さあ、ここをお突き!ここからネロが生まれたのだから」とおそろしい台詞をはいて殺された。さらにポッパイアは正妻になることをねだり、ネロはオクタウィアが子供を産まなかったことを理由に離縁した。それだけではく、密通の嫌疑をかけて幽閉し、最後は自殺を強要した。
 これらが有名なネロの周辺の血なまぐさい事件で、すべて女がからんでいた。話はこれだけにとどまらず、ナポリで連日リサイタルを開いては自ら歌手となって歌い、ローマ市民が「パンと見せ物」を要求すると国の財産を投げ打ってカーニバルを開催、毎夜らんちき騒ぎが繰り広げられた。ネロの興味は今度は男性に移り、ピタゴラスという奴隷と正式な手続きを踏んで結婚までしている。ローマに大火が発生したのはそのような一夜だった。その後、政治にまったく関心を無くしたネロは、ギリシアに渡って戦車競争と歌舞音曲に明け暮れる。その頃はさすがのローマにも皇帝の乱行を非難する声が起こり始めた。<秀村欣二『ネロ』1967 中公新書 により構成>

ローマの大火

 64年7月、ローマに数日にわたる大火が発生、そのほとんどを焼失した。その様子はタキトゥスの『年代記』に詳しく描かれている。
(引用)偶然だったのか、元首の策略によるのか、不明である。それはともかく、今度の火事は、それまで都を襲ったどの猛火よりも規模が大きく被害もはなはだしかった。火の手が最初にあがったのは、大競技場がパラティウム丘とカエリウス丘に接する側である。そこには燃えやすい商品を陳列した店屋ばかり並んでいた。それで、発生と同時に火勢は強く、おまけに風にあおられ、石塀をめぐらした邸宅や外壁に囲まれた神殿などの延焼を遅らせるような障害物がまったくなかったためもあって、見る見るうちに大競技場をすっぽり囲んでしまう。炎は凶暴な勢いでまず平地をなめつくすと、次には高台にのぼり、ふたたび低地を荒らした。どんな消火対策も追いつかぬくらい、災害の勢いは早かった。その頃のローマは、幅の狭い道があちこちと曲がりくねって、家並も不規則だったから、被害を蒙りやすい都であった。それに加えて、恐れおののく女の悲鳴、もうろくした人、がんぜない子。だれもが自分の安全を計り、他人の身を気遣い、弱い者を引き連れあるいは待ちながら、ある人はおくれ、ある者はあわて、みなお互いに邪魔し合う。多くの人が背後を気にしているまに、横から前からと火の手にかこまれてしまう・・・。<タキトゥス『年代記』下 岩波文庫 p.264>
 なかには消火を邪魔し、おおっぴらに松明を投げながら「その筋の命令でやっているのだ」と叫んでいる人たちもいた。ネロは呆然自失の態でいる罹災者を元気づけるため、自分の庭園を開放し、応急の掛け小屋を設けて群衆を収容しようとし、近郊の自治市から食料を運ばせ、穀物の価格を下げさせたが、何の足しにもならなかった。というのは、「ネロは都が燃えさかっている最中に、館内の私舞台に立ち、目の前の火災を見ながら、これを太古の不幸になぞらえて『トロイアの陥落』を歌っていた」という噂が広がっていたからである。またようやく火が鎮まってから「ネロは新しく都を建てなおし、それに自分の名前を付けようという野心を、日ごろから抱いていた」といった噂もながれた。<タキトゥス 同上 p.265-266>

Episode 大火の要因と新都市計画

 すべての建物がコンクリート造りか石造だったローマで火災がなぜ延焼したか。それは当時の建物の水平材(梁や天井、床)が木材だったからで、梁がそのまま外側につきだしたバルコニーを伝わって延焼し、その火が逃げまどう人々の頭上に降り注いだのだ。また、大火災になった最大の理由は、当時人口100万に急増したローマは4階建て、5階建ての集合住宅が密集する高密都市になっていたことである。そこで大火後の新都市計画では、道路を広げ、建物は4階までに制限され、必ず中庭を設けること、床には木材使用が禁止され、天井には石材が奨励された。また消火用の貯水槽や水道を張り巡らせた。同時にネロは個人的な趣味のために、焼け跡に広大な「黄金宮殿」を建設した。前庭には巨大なネロの立像を建て、海や野山をもした庭園には動物を放し飼いにし、各部屋には金箔を張りつめ、宝石で飾り、食堂の天井には象牙の鏡板がはめこまれ、浴場には海水と硫黄泉をひいた、という。<青柳正規『皇帝たちの都ローマ』1992 中公新書 p.236-244>

ネロ帝のキリスト教徒迫害

 ネロ帝はローマ帝国による最初のキリスト教の迫害を行ったことでよく知られている。64年、ネロ帝はローマ大火の原因をキリスト教徒の放火であると断定した。それまでキリスト教についてはほとんど知られていなかったがこれで人々にその存在が知られるようになった。ネロは捕らえたキリスト教徒を簡単な裁判で死刑に決め、猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに燃やしたりしたという。またこのとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペテロも、逆さまに十字架にかけられ殉教した。パウロもこのときローマで殉教したとされている。

資料 タキトゥスの伝えるキリスト教徒迫害

 ネロがローマの大火の際にキリスト教徒を迫害したことを伝えるのは、タキトゥスの『年代記』がほぼ唯一の史料である。またこの史料で、クリストゥスという名で初めてイエス=キリストが登場する。
(引用)民衆は「ネロが大火を命じた」と信じて疑わなかった。そこでネロは、この風評をもみけそうとして、身代わりの被告をこしらえ、これに大変手のこんだ罰を加える。それは、日頃から忌まわしい行為で世人から恨み憎まれ、「クリストゥス信奉者」と呼ばれていた者たちである。この一派の呼び名の起因となったクリストゥスなる者は、ティベリウスの治下に、元首属吏ポンティウス・ピラトゥスによって処刑されていた。その当座は、この有害きわまりない迷信も、一時鎮まっていたのだが、最近になってふたたび、この過悪の発生地ユダヤにおいてのみならず、世界中からおぞましい破廉恥なものがことごとく流れ込んでもてはやされるこの都においてすら、猖獗(しょうけつ)をきわめていたのである。そこでまず、信仰を告白していた者が審問され、ついでその者らの情報に基づき、実におびただしい人が、放火の罪というよりむしろ人類敵視の罪と結びつけられたのである。彼らは殺されるとき、なぶりものにされた。すなわち、野獣の毛皮をかぶされ、犬に噛み裂かれて倒れる。(あるいは十字架に縛り付けられ、あるいは燃えやすく仕組まれ、)そして日が落ちてから夜の灯火代わりに燃やされたのである。ネロはこの見世物のため、カエサル家の庭園を提供し、そのうえ、戦車競技まで催して、その間中、戦車馭者のよそおいで民衆のあいだを歩きまわったり、自分でも戦車を走らせたりした。そこで人々は、不憫の念を抱きだした。なるほど彼らは罪人であり、どんなにむごたらしい懲罰にも値する。しかし彼らが犠牲になったのは、国家の福祉のためではなく、ネロ一個人の残忍性を満足させるためであったように思われたからである。<タキトゥス『年代記』下 岩波文庫 p.269-270>
 この資料を基に、壮大な歴史小説に仕上げたのが、ポーランドの作家シェンキヴィッチの『クオ・ヴァディス』である。