キリスト教
イエスの教えを、使徒が継承発展させ、キリスト教団を組織、パウロなどが教義を体系化し、世界宗教に転化させ地中海世界に広がった。ローマ帝国で国教となり、その後、西欧世界の精神世界を支配するに至り、東西分裂、教皇庁の分裂、宗教改革などを経て、なおも文化、社会、政治に強い影響力を保っている。正統とされたローマ=カトリック教会と、そこから分離したプロテスタント系諸派は西方キリスト教と総称し、それに対してビザンツ帝国の保護の元で発展したギリシア正教を東方キリスト教という。東方には異端とされた宗派がいまも各地に存続している。
ユダヤ教を母体としてイエスが始めた宗教。神の愛を説くイエスの教えは使徒によって広められ、イエスを救世主(キリスト)と信ずる人びとによって、キリスト教として体系づけられてローマ世界に広がり、ローマ帝国による厳しい弾圧にもかかわらず、民族、階級を超えた世界宗教に成長した。このようにキリスト教は現在多くの教派に分かれているが、それらを総合すれば、仏教・イスラーム教とともに世界の三大宗教の一つとして現在も大きな影響力をもっている。キリスト教の2001年の推定宗教人口は約20億人。世界人口の約33%にあたる。(イスラーム教は12億、仏教は3.6億。ヒンドゥー教の方が多く、8.2億である。)
パウロによる普遍化 はじめは同じ一神教であるユダヤ教の一分派としかとらえられなかったが、使徒の活動、特にペテロやパウロが小アジアのユダヤ人らに広め、さらにローマに赴き伝道することによってローマ領内に広まった。特にパウロが、イエスを救世主としてその愛によって人が原罪から救済されると説いてから、単なるユダヤ人のための信仰ではなく、あらゆる人々の信仰を受ける「世界宗教」としてのキリスト教に変質した。
激しい迫害 ローマ帝国では皇帝崇拝を拒否したキリスト教徒は、ネロ帝やディオクレティアヌス帝の時など、激しく迫害されたが、その間にも信仰はローマ領内に広がり、多くの信徒は地下墓坑である力タコンべで信仰を守った。
キリストを巡る神学論争 同時に、イエス死後数百年を経てその教えの理解にも違いが生じていたため、コンスタンティヌス帝は教義の統一をはかる必要に迫られるようになっていた。教義上問題となったのはキリストをどう捉えるかということで、一般信徒には早くからキリストは神であるという信仰が生まれていたが、それだと父なる神とともにキリストも神だとすると二神論となり唯一神の原理からはずれてしまう。そこからキリストは人として存在したが、あわせて神性を有していたという解釈が生まれた。しかしその場合、神としての本性と人としての本性はどのような関係があるのか、という疑問が生じ、そこから各地の教会にさまざまな解釈が生まれていった。その背景にはキリスト教を哲学的・合理的に理解することが教会でも必要とされてきたことがあった。
その「キリスト論論争」の過程は長く、深刻で、複雑であり、いわゆる不毛な神学論争がくりかえされてきた。そのすべてにわたって理解することは(特にキリスト教信者でない場合は)難しい。しかし、高校教科書の簡略な説明ではかえって理解が困難になり、誤解も生じてしまう。そこで簡略すぎず、かといってできるだけ不要な記述を整理して、正確を期しながら以下で神学論争と公会議の歴史をたどってみよう。
アリウス派 4世紀の初めアレクサンドリア教会の長老アリウスは、「神の本性はいかなる分割もありえず、キリストの本性は神聖ではあっても神性ではない」とし、イエスは神によって創造された子に過ぎない(つまり、神ではなく人である)とする説教を行った。これはそれまで、イエスをキリストとして受け入れ、神と区分することなく一体として信仰していた人々に、初めてイエスは神か人か、というキリスト論論争と言われる教義解釈をめぐる対立が持ち込まれた。
ローマ皇帝による公会議開催 このような教義論争が起こったことに対して、ローマ皇帝は、キリスト教を国教としたために、その教義の統一をはかる必要が生じ、皇帝が各地の教会の上位聖職者を集めて論争させ、裁定を下すための宗教会議として公会議を召集するようになった。その過程で、次第に三位一体説が正統とされ、それ以外の多くの異端は排除されていく。
ニケーア公会議 325年にコンスタンティヌス大帝がニケーア公会議を招集した。問題となったのはアリウスの説く、イエスは神によって創造された子に過ぎない(神ではない)とする教説であった。それに対してアタナシウスは、神と神の子イエスは本質において同一であり、そのいずれかに分けることは出来ないと主張した(わかりやすく言えば)。論争の結果、アタナシウスの教理が正統とされ(これが後に三位一体説となる)、アリウスの教理は異端であると退けられ、ローマ世界では布教認められず、周辺のゲルマン人などに広がった。もっともまもなくコンスタンティヌス帝自身がアリウス派を信仰し、アタナシウスは逆に捕らえられてしまうので、この時点で簡単に三位一体説が確立したわけではない。また「聖霊」に付いては結論は出ていない。
三位一体説 その後のローマでは4世紀の中ごろのユリアヌス帝(背教者といわれた)がローマの神々への信仰を復活させたことがあったが、キリスト教信仰に戻ったテオドシウス帝は、まず380年にキリスト教を国教として認め、翌381年にはコンスタンティノポリス公会議を招集した。そこでは父(神)と子(キリスト)に加え、聖霊の存在を認め、その「父と子と聖霊」はそれぞれ別な面(ペルソナ)を有しているが、本質において同一であるという三位一体説を正統として確定した。この二回の公会議によって作られた正統教義は「ニケーア=コンスタンティノープル信条」として後の全キリスト教教会の信条とされ、それに従わない教会は異端であるとされる。異端とされたアリウス派はローマ領では布教できず、ゲルマン人に広がった。
国教化の完成 さらにテオドシウス帝は、392年にキリスト教以外の宗教を禁止し、キリスト教をローマ帝国での唯一の宗教とすることを定めた。これによってキリスト教の国教化が完成し、アタナシウスの三位一体説もキリスト教の唯一の正統教義として確定した。
これらの公会議はローマ皇帝によって召集され、皇帝の権威の元で教義が定められたことによって、キリスト教教会に対する皇帝の主導権は一段と強められた。また、ペテロ・パウロ以来のローマ教会と並んで帝国首都のコンスタンティノープル教会のの権威も同等に高くなった。しかし、キリスト教の国教化から間もない、395年、テオドシウス帝の死に伴って帝国は東西に分裂することになり、ローマ教会とコンスタンティノープル教会は異なった歩みをすることになる。
ネストリウス派 ニケーア公会議、コンスタンティのポリス公会議でキリスト論論争はまだ決着が付いていなかった。キリストは神性と人性を併せ持つと言ってもどのように統合されているのか、両性は対等なのか、それとも「唯一の本性」をもつのか。もし唯一の本性なら、それは神性なのか人性なのか、などが論争されるようになった。コンスタンティノポリス総主教ネストリウスは、当時一般的だったマリアを「神の母」であるとする節に疑問を呈し、神を創造主とすることと矛盾すると批判した。彼は「マリアは神の母ではなくキリストの母である」と結論づけ、つまり端的に言えば、キリストが神ならば、マリアという人間が神を生んだことになり、創造主が人間によって作られるという逆転した理屈になってしまうと考えた。正しきリストの神性を否定したわけではなく、神性と人性は分離しておりそれぞれがキリストとなって現れていると考えた。それに対してアレクサンドリア総主教のキュリロスは、キリストは神性と人性の両性を有するが人性は神性に満たされて神化したと主張した。この両派はコンスタンティのポリスとアレクサンドリアの教会対立となって激しい議論が展開された。
エフェソス公会議 両派の対立の解消を目指した東ローマ皇帝のテオドシウス2世は431年、エフェソス公会議を召集、ネストリウス派とキュリロス派で論争させた。結果は妥協的な教義がつくられ、あいまいなものであったがネストリウスは罷免されたためエジプトに追放された。その教えはネストリウス派といわれるようになり、シリアを経て東方のペルシアで布教され、さらに東方にひろがり、唐時代の中国に伝えられては景教と言われている。
単性説 その後もキリスト論論争は複雑な経緯があるが、大筋ではその後も三位一体説の優位が続いた。しかし、次にキリストの人性を強調したネストリウス派とは反対に、その本性を明確な神性のみとする単性説が生まれ、三位一体説は揺らぐこととなった。あらたな単性説はコンスタンティノポリスの修道院長エウテュケスが唱えたもので、キリストは「唯一の本性」をもつのであり、それは人性が神性に吸収されのであると説き、「キリストはただ外見上人間であるに過ぎない」神であるとした。そのためエウテュケスは「キリスト単性説」の創始者と言われている。
カルケドン公会議 451年、皇帝マルキアノスが召集し、カルケドン公会議が開催された。エウテュケスはすでに死去していたが、ここでは単性説は否定され、三位一体説が正統の教義として確立した。その決定は「カルケドン信条」としてまとめられ、キリストは「神性によると父(神)と同質であり、人性によるとわれわれ(人間)と同質である」と宣言され、ふたつの本性は融合したこと、マリアは神の母であることも再確認された。またこのとき、公会議に書簡を送り三位一体説を強く主張したのがローマ教会の司教レオ1世であったことから、ローマ教会の首位性がつよまってレオ1世はローマ教皇と言われるようになった。
このとき、東方にあったエジプトのコプト教会、あるいはアルメニア教会、エチオピア教会などはいずれも「キリスト単性説」(イエスは唯一、神性のみを本性とするという単性説)を捨てなかったので、いずれも異端とされたが、辺境にあったため干渉されず、信仰が守られて現在に続いている。
ゲルマン人への布教 ローマ教会は西ローマ帝国の滅亡後、保護者を失って危機に陥り、東方のコンスタンティノープル教会の下風におかれるが、ローマ教会はアリウス派の影響下にあったゲルマン人に対して三位一体説などのカトリック信仰の布教に努め、496年、フランク王国のクローヴィスの改宗に成功し、関係を築いた。実質的な初代のローマ教皇とされるグレゴリウス1世は、特にベネディクト派の修道士をイギリスのアングロ=サクソン王国(七王国)に派遣してその強化に成功した。
聖像禁止令 7世紀になるとアラビア半島でイスラーム教が生まれ、急速に勢力をのばしてビザンツ帝国の領土を脅かすようになった。その事を背景として726年にビザンツ皇帝レオン3世は、教会に対して聖像禁止令を命じた。この聖像崇拝問題を契機として、ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立が深まっていった。
ピピンの寄進 一方、聖像禁止令を巡ってビザンツ帝国・東方教会と対立することとなった西方教会のローマ=カトリック教会はフランク王国との結びつきを強めていった。756年にピピンの寄進によって中部イタリアのラヴェンナ地方がローマ教会領となり、ローマ=カトリック教会は封建領主としての性格ももつようになった。
カールの戴冠 さらに800年に「カールの戴冠」をローマ教会で挙行したことで確立し、ゲルマン民族の封建社会とローマ=カトリック教会の結びついた西ヨーロッパ中世世界を成立させた。こうして西ヨーロッパではローマ=カトリック教会が絶大な精神上も世俗的にも力を持つようになる。
それぞれ独自の道を歩むこととなった東西両キリスト教は、その後も歩み合うことなく、最終的に1054年に互いを破門しあって、分離することとなる(教会の東西分離)。
神聖ローマ帝国 9世紀にはローマ教皇を支えていたフランク王国が分裂し、政治的な混乱が生じたため、ローマ教会にも周辺の政治勢力の干渉が続いた。そのなかで、10世紀には東フランクのオットー1世が新たなローマ教会の保護者として現れ、962年にオットーの戴冠が行われて神聖ローマ帝国が成立した。オットー大帝は帝国教会政策を採り、教会を通じての統治を目指したため、ローマ教皇位は世俗の権力の下風に立つ傾向が強まった。
クリュニー修道院 そしてそれに対する反動として、10世紀にフランスで活動を開始したクリュニー修道院は、ベネディクト派の戒律を復活させ、清貧と厳格な規律を復活させて再び修道院運動を展開、そこから改革派の聖職者がヨーロッパ各地の教会に広がっていった。彼らは聖職売買と聖職者の妻帯を否定し、教会や修道院の粛正を進めた。
グレゴリウス改革と叙任権闘争 ローマ教皇の中にもその影響を受けて改革を標榜するものが現れ、特に1075年にローマ教皇グレゴリウス7世は聖職売買と聖職者の妻帯を厳格に否定して教会の粛正にあたった。これを「グレゴリウス改革」といい、さらに彼は皇帝以下の世俗の権力の聖職者叙任権を否定し、それに反発した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門した。
カノッサの屈辱 1077年、窮地に立たされたハインリヒ4世はグレゴリウス7世に許しを請い、ようやく許されるというカノッサの屈辱の事件がおこった。こうしてローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間の叙任権闘争が激化し、次第にローマ教皇権の優位が明確となって、1122年のヴォルムス協約で妥協が成立、ローマ教皇権の世俗権力からの優位が確立した。
異端の出現 この時代に教会と修道院は民衆の支持を受けてキリスト教信仰を深化させていった。民衆の中から自然発生的に救済を求める起こってきた。それはフランスでのカタリ派やワルド派など動きであったが、ローマ教会はこれらの運動を異端として取り締まるようになった。
十字軍運動 11世紀末にウルバヌス2世が提唱した十字軍運動は、当初は聖地奪回にも成功し、教皇の権威を高める上で大きな力となった。十字軍の開始を受けて教皇となったインノケンティウス3世のもとで、ローマ教皇権は最高潮に達した。
しかし、その時期を頂点として教皇権力は次第に下降線をたどり、世俗の権力の介入を受けて教皇がローマとアヴィニヨンに分裂する教会大分裂(大シスマ)の事態となり、その権威は次第に低下する。
宗教改革 ローマ教皇レオ10世がサン=ピエトロ大聖堂の修築費用を贖宥状の販売で得ようとしたことに、ドイツの聖職者ルターが疑問を抱き、1517年に九十五ヶ条の論題を発表したことから宗教改革が始まった。
この16世紀初めのルターのはじめた宗教改革によって、キリスト教の西方教会は大きくカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)に分裂した。プロテスタントにもさまざまな教義の違いがあり、多くの教派に分かれることとなった。 → イギリス宗教改革 イギリス国教会 イギリスの宗教各派
東方教会はつねにイスラーム教圏と接していたので、つねに厳しい状況であったが、特に13世紀のモンゴル人による侵攻は大きな試練であった。さらにオスマン帝国は小アジアを征服し、首都コンスタンティノープルに迫り、ついに1453年にコンスタンティノープルが陥落した。1000年を越えるキリスト教世界の一つの中心地がイスラーム教徒の手に落ちたことは大きな衝撃であった。このときハギア=ソフィア大聖堂はイスラーム教のモスクに造り替えられた。しかし、間違ってはいけないことは、これでコンスタンティノープル総主教が断絶したのではない。総主教座はイスタンブルのファナル地区に移され、そこで存続している。
一方、発展を続けたロシア国家では、1589年、モスクワの大主教が、イスタンブルのコンスタンティノープル総主教から独立した一つのギリシア正教会総主教として承認された。このようにビザンツ教会ではコンスタンティノープル総主教がカトリック教会におけるローマ教皇のような統制力を持つのではなく、ロシア・ブルガリア・ルーマニア・ギリシアなど各国の総主教がそれぞれ独立した宗教団体を作っていくという、いわば「のれん分け」式に広がっていった。
・プロテスタント(新教)②
・東方キリスト教 ・ギリシア正教(会)③
・東方諸教会④
①カトリックはローマ教皇を頂点としたヒエラルキアのもとで全世界のカトリック教会を統括している。
②プロテスタントはルター派・カルヴァン派に大別される。ほかにカトリックとの中間的なイギリス国教会(聖公会)がある。さらに、ルター派・カルヴァン派からはさまざまな宗派が分かれている。
③ギリシア正教(東方正教会)にはロシア正教会、ギリシア正教会、ルーマニア正教会、セルビア正教会など多数がある。コンスタンティノープル総主教も存続しているがカトリックの教皇と違ってギリシア正教の全教会を管轄しているのではない。
④東方諸教会とはローマ教会から異端とされたネストリウス派(現在はほぼ絶滅)と、カルケドン公会議で異端とされたので非カルケドン派と総称される単性説を掲げる・コプト教会、・アルメニア教会、・シリア正教会(ヤコブ派教会)、・エチオピア教会など諸派がある。それぞれローマ教会より古い歴史を持ち、自らを正当と主張しているので「正教会」と名乗っている。
※このような分類は便宜的なもので、必ずしも厳密ではない。例えば、マロン派のようにカトリック系でありながらギリシア正教の祭式に従っている例もある。
・ページ内の見だしリスト
・関連項目へ
- (1)キリスト教の成立
- (2)教義の統一と国教化
- (3)三位一体説か単性説か
- (4)ローマ=カトリック教会の成立
- (5)教会の東西分裂
- (6)ローマ=カトリック教会の発展と動揺
- (7)教会の腐敗と改革運動
- (8)宗教改革、旧教・新教の分裂
- (9)東方教会のその後
- (10)キリスト教の宗派の分け方
・関連項目へ
- ・カトリック(旧教)
- ・プロテスタント(新教)
- ・ギリシア正教(正教会)(東方教会)
(1)キリスト教の成立
紀元後30年ごろ、イエスが十字架に架けられた後、3日後に復活したことを信じ、キリスト(救世主を意味する)とあがめる宗教。その直後から少数の信者団体である原始キリスト教団が生まれた。後に、イエスが生まれた年はキリスト紀元とされ、現在の世界基準の年代表記となっている。パウロによる普遍化 はじめは同じ一神教であるユダヤ教の一分派としかとらえられなかったが、使徒の活動、特にペテロやパウロが小アジアのユダヤ人らに広め、さらにローマに赴き伝道することによってローマ領内に広まった。特にパウロが、イエスを救世主としてその愛によって人が原罪から救済されると説いてから、単なるユダヤ人のための信仰ではなく、あらゆる人々の信仰を受ける「世界宗教」としてのキリスト教に変質した。
激しい迫害 ローマ帝国では皇帝崇拝を拒否したキリスト教徒は、ネロ帝やディオクレティアヌス帝の時など、激しく迫害されたが、その間にも信仰はローマ領内に広がり、多くの信徒は地下墓坑である力タコンべで信仰を守った。
(2)教義の統一と国教化
また3世紀ごろまでには『新約聖書』がまとめられ、教義も調えられた。ローマ帝国の3世紀の危機を克服して、帝国支配の安定をはかるコンスタンティヌス帝は、313年にミラノ勅令を出して、ローマ帝国におけるキリスト教を公認し、それによってキリスト教に対する迫害は終わりを告げた。キリストを巡る神学論争 同時に、イエス死後数百年を経てその教えの理解にも違いが生じていたため、コンスタンティヌス帝は教義の統一をはかる必要に迫られるようになっていた。教義上問題となったのはキリストをどう捉えるかということで、一般信徒には早くからキリストは神であるという信仰が生まれていたが、それだと父なる神とともにキリストも神だとすると二神論となり唯一神の原理からはずれてしまう。そこからキリストは人として存在したが、あわせて神性を有していたという解釈が生まれた。しかしその場合、神としての本性と人としての本性はどのような関係があるのか、という疑問が生じ、そこから各地の教会にさまざまな解釈が生まれていった。その背景にはキリスト教を哲学的・合理的に理解することが教会でも必要とされてきたことがあった。
その「キリスト論論争」の過程は長く、深刻で、複雑であり、いわゆる不毛な神学論争がくりかえされてきた。そのすべてにわたって理解することは(特にキリスト教信者でない場合は)難しい。しかし、高校教科書の簡略な説明ではかえって理解が困難になり、誤解も生じてしまう。そこで簡略すぎず、かといってできるだけ不要な記述を整理して、正確を期しながら以下で神学論争と公会議の歴史をたどってみよう。
アリウス派 4世紀の初めアレクサンドリア教会の長老アリウスは、「神の本性はいかなる分割もありえず、キリストの本性は神聖ではあっても神性ではない」とし、イエスは神によって創造された子に過ぎない(つまり、神ではなく人である)とする説教を行った。これはそれまで、イエスをキリストとして受け入れ、神と区分することなく一体として信仰していた人々に、初めてイエスは神か人か、というキリスト論論争と言われる教義解釈をめぐる対立が持ち込まれた。
ローマ皇帝による公会議開催 このような教義論争が起こったことに対して、ローマ皇帝は、キリスト教を国教としたために、その教義の統一をはかる必要が生じ、皇帝が各地の教会の上位聖職者を集めて論争させ、裁定を下すための宗教会議として公会議を召集するようになった。その過程で、次第に三位一体説が正統とされ、それ以外の多くの異端は排除されていく。
ニケーア公会議 325年にコンスタンティヌス大帝がニケーア公会議を招集した。問題となったのはアリウスの説く、イエスは神によって創造された子に過ぎない(神ではない)とする教説であった。それに対してアタナシウスは、神と神の子イエスは本質において同一であり、そのいずれかに分けることは出来ないと主張した(わかりやすく言えば)。論争の結果、アタナシウスの教理が正統とされ(これが後に三位一体説となる)、アリウスの教理は異端であると退けられ、ローマ世界では布教認められず、周辺のゲルマン人などに広がった。もっともまもなくコンスタンティヌス帝自身がアリウス派を信仰し、アタナシウスは逆に捕らえられてしまうので、この時点で簡単に三位一体説が確立したわけではない。また「聖霊」に付いては結論は出ていない。
三位一体説 その後のローマでは4世紀の中ごろのユリアヌス帝(背教者といわれた)がローマの神々への信仰を復活させたことがあったが、キリスト教信仰に戻ったテオドシウス帝は、まず380年にキリスト教を国教として認め、翌381年にはコンスタンティノポリス公会議を招集した。そこでは父(神)と子(キリスト)に加え、聖霊の存在を認め、その「父と子と聖霊」はそれぞれ別な面(ペルソナ)を有しているが、本質において同一であるという三位一体説を正統として確定した。この二回の公会議によって作られた正統教義は「ニケーア=コンスタンティノープル信条」として後の全キリスト教教会の信条とされ、それに従わない教会は異端であるとされる。異端とされたアリウス派はローマ領では布教できず、ゲルマン人に広がった。
国教化の完成 さらにテオドシウス帝は、392年にキリスト教以外の宗教を禁止し、キリスト教をローマ帝国での唯一の宗教とすることを定めた。これによってキリスト教の国教化が完成し、アタナシウスの三位一体説もキリスト教の唯一の正統教義として確定した。
これらの公会議はローマ皇帝によって召集され、皇帝の権威の元で教義が定められたことによって、キリスト教教会に対する皇帝の主導権は一段と強められた。また、ペテロ・パウロ以来のローマ教会と並んで帝国首都のコンスタンティノープル教会のの権威も同等に高くなった。しかし、キリスト教の国教化から間もない、395年、テオドシウス帝の死に伴って帝国は東西に分裂することになり、ローマ教会とコンスタンティノープル教会は異なった歩みをすることになる。
(3)三位一体説か単性説か
ローマ帝政末期までに地中海世界各地に教会が設けられ、ローマ、コンスタンティノープル、アレクサンドリア、イェルサレム、アンティオキアが五大管区に分けられ、それぞれ拠点の教会が五本山とされるようになった。しかし、地域的な信仰の違いはいずれを正統とするかによって対立が生じるようになった。ネストリウス派 ニケーア公会議、コンスタンティのポリス公会議でキリスト論論争はまだ決着が付いていなかった。キリストは神性と人性を併せ持つと言ってもどのように統合されているのか、両性は対等なのか、それとも「唯一の本性」をもつのか。もし唯一の本性なら、それは神性なのか人性なのか、などが論争されるようになった。コンスタンティノポリス総主教ネストリウスは、当時一般的だったマリアを「神の母」であるとする節に疑問を呈し、神を創造主とすることと矛盾すると批判した。彼は「マリアは神の母ではなくキリストの母である」と結論づけ、つまり端的に言えば、キリストが神ならば、マリアという人間が神を生んだことになり、創造主が人間によって作られるという逆転した理屈になってしまうと考えた。正しきリストの神性を否定したわけではなく、神性と人性は分離しておりそれぞれがキリストとなって現れていると考えた。それに対してアレクサンドリア総主教のキュリロスは、キリストは神性と人性の両性を有するが人性は神性に満たされて神化したと主張した。この両派はコンスタンティのポリスとアレクサンドリアの教会対立となって激しい議論が展開された。
エフェソス公会議 両派の対立の解消を目指した東ローマ皇帝のテオドシウス2世は431年、エフェソス公会議を召集、ネストリウス派とキュリロス派で論争させた。結果は妥協的な教義がつくられ、あいまいなものであったがネストリウスは罷免されたためエジプトに追放された。その教えはネストリウス派といわれるようになり、シリアを経て東方のペルシアで布教され、さらに東方にひろがり、唐時代の中国に伝えられては景教と言われている。
単性説 その後もキリスト論論争は複雑な経緯があるが、大筋ではその後も三位一体説の優位が続いた。しかし、次にキリストの人性を強調したネストリウス派とは反対に、その本性を明確な神性のみとする単性説が生まれ、三位一体説は揺らぐこととなった。あらたな単性説はコンスタンティノポリスの修道院長エウテュケスが唱えたもので、キリストは「唯一の本性」をもつのであり、それは人性が神性に吸収されのであると説き、「キリストはただ外見上人間であるに過ぎない」神であるとした。そのためエウテュケスは「キリスト単性説」の創始者と言われている。
カルケドン公会議 451年、皇帝マルキアノスが召集し、カルケドン公会議が開催された。エウテュケスはすでに死去していたが、ここでは単性説は否定され、三位一体説が正統の教義として確立した。その決定は「カルケドン信条」としてまとめられ、キリストは「神性によると父(神)と同質であり、人性によるとわれわれ(人間)と同質である」と宣言され、ふたつの本性は融合したこと、マリアは神の母であることも再確認された。またこのとき、公会議に書簡を送り三位一体説を強く主張したのがローマ教会の司教レオ1世であったことから、ローマ教会の首位性がつよまってレオ1世はローマ教皇と言われるようになった。
このとき、東方にあったエジプトのコプト教会、あるいはアルメニア教会、エチオピア教会などはいずれも「キリスト単性説」(イエスは唯一、神性のみを本性とするという単性説)を捨てなかったので、いずれも異端とされたが、辺境にあったため干渉されず、信仰が守られて現在に続いている。
(4)ローマ=カトリック教会の成立
アウグスティヌス ローマ帝国の東西分裂の以前から、西ローマ帝国の北辺には非キリスト教徒、あるいは非正統キリスト教徒のゲルマン人の活動が活発となり、帝国は深刻な危機にさらされていた。4世紀末に北アフリカのカルタゴに現れた教父アウグスティヌスは、青年期のマニ教への入信などの過ちを告白し、教会を現世における神の国と位置づけた。その思想は、ローマ=カトリック教会のローマ教皇を頂点とした教会の存在を理論づけるものであり、その理念によって、476年に西ローマ帝国が滅亡してもローマ教会が生き残ることができ、よりたしかな世界宗教としての存在となることができたと言える。ゲルマン人への布教 ローマ教会は西ローマ帝国の滅亡後、保護者を失って危機に陥り、東方のコンスタンティノープル教会の下風におかれるが、ローマ教会はアリウス派の影響下にあったゲルマン人に対して三位一体説などのカトリック信仰の布教に努め、496年、フランク王国のクローヴィスの改宗に成功し、関係を築いた。実質的な初代のローマ教皇とされるグレゴリウス1世は、特にベネディクト派の修道士をイギリスのアングロ=サクソン王国(七王国)に派遣してその強化に成功した。
(5)教会の東西分裂
コンスタンティノープル教会 コンスタンティノープル教会(コンスタンティノポリス総主教)は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の保護の下に発展していった。6世紀のユスティニアヌス帝の時にはコンスタンティノープルにハギア=ソフィア大聖堂が再建され(537年完成)、そこに総主教座が置かれた。しかし、ビザンツ帝国は7世紀にはギリシア語を公用語とするなどギリシア化が進んだため、東方教会はギリシア正教(正教会)と言われるようになっていった。聖像禁止令 7世紀になるとアラビア半島でイスラーム教が生まれ、急速に勢力をのばしてビザンツ帝国の領土を脅かすようになった。その事を背景として726年にビザンツ皇帝レオン3世は、教会に対して聖像禁止令を命じた。この聖像崇拝問題を契機として、ローマ教会とコンスタンティノープル教会の対立が深まっていった。
ピピンの寄進 一方、聖像禁止令を巡ってビザンツ帝国・東方教会と対立することとなった西方教会のローマ=カトリック教会はフランク王国との結びつきを強めていった。756年にピピンの寄進によって中部イタリアのラヴェンナ地方がローマ教会領となり、ローマ=カトリック教会は封建領主としての性格ももつようになった。
カールの戴冠 さらに800年に「カールの戴冠」をローマ教会で挙行したことで確立し、ゲルマン民族の封建社会とローマ=カトリック教会の結びついた西ヨーロッパ中世世界を成立させた。こうして西ヨーロッパではローマ=カトリック教会が絶大な精神上も世俗的にも力を持つようになる。
それぞれ独自の道を歩むこととなった東西両キリスト教は、その後も歩み合うことなく、最終的に1054年に互いを破門しあって、分離することとなる(教会の東西分離)。
(6)ローマ=カトリック教会の発展と動揺
西ヨーロッパ世界では修道院運動で教義の純化に努めながらゲルマン諸国に浸透していったローマ=カトリック教会が、ローマ教皇を頂点とした聖職者階層制組織(ヒエラルキア)をつくりあげ、村落の隅々まで教会が作られ、社会に深く浸透した。神聖ローマ帝国 9世紀にはローマ教皇を支えていたフランク王国が分裂し、政治的な混乱が生じたため、ローマ教会にも周辺の政治勢力の干渉が続いた。そのなかで、10世紀には東フランクのオットー1世が新たなローマ教会の保護者として現れ、962年にオットーの戴冠が行われて神聖ローマ帝国が成立した。オットー大帝は帝国教会政策を採り、教会を通じての統治を目指したため、ローマ教皇位は世俗の権力の下風に立つ傾向が強まった。
(7)教会の腐敗と改革運動
中世封建社会の中で、教会と修道院も封建領主化していたため、経済的に豊かな基盤を得て、次第に宗教者としての限度を超えた華美な生活を送るものもあらわれ、聖職が売買の対象となったり、聖職者の中には妻帯するものもあらわれるなど、腐敗が表面化するようになった。 → ローマ教皇の堕落クリュニー修道院 そしてそれに対する反動として、10世紀にフランスで活動を開始したクリュニー修道院は、ベネディクト派の戒律を復活させ、清貧と厳格な規律を復活させて再び修道院運動を展開、そこから改革派の聖職者がヨーロッパ各地の教会に広がっていった。彼らは聖職売買と聖職者の妻帯を否定し、教会や修道院の粛正を進めた。
グレゴリウス改革と叙任権闘争 ローマ教皇の中にもその影響を受けて改革を標榜するものが現れ、特に1075年にローマ教皇グレゴリウス7世は聖職売買と聖職者の妻帯を厳格に否定して教会の粛正にあたった。これを「グレゴリウス改革」といい、さらに彼は皇帝以下の世俗の権力の聖職者叙任権を否定し、それに反発した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門した。
カノッサの屈辱 1077年、窮地に立たされたハインリヒ4世はグレゴリウス7世に許しを請い、ようやく許されるというカノッサの屈辱の事件がおこった。こうしてローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間の叙任権闘争が激化し、次第にローマ教皇権の優位が明確となって、1122年のヴォルムス協約で妥協が成立、ローマ教皇権の世俗権力からの優位が確立した。
異端の出現 この時代に教会と修道院は民衆の支持を受けてキリスト教信仰を深化させていった。民衆の中から自然発生的に救済を求める起こってきた。それはフランスでのカタリ派やワルド派など動きであったが、ローマ教会はこれらの運動を異端として取り締まるようになった。
十字軍運動 11世紀末にウルバヌス2世が提唱した十字軍運動は、当初は聖地奪回にも成功し、教皇の権威を高める上で大きな力となった。十字軍の開始を受けて教皇となったインノケンティウス3世のもとで、ローマ教皇権は最高潮に達した。
しかし、その時期を頂点として教皇権力は次第に下降線をたどり、世俗の権力の介入を受けて教皇がローマとアヴィニヨンに分裂する教会大分裂(大シスマ)の事態となり、その権威は次第に低下する。
(8)宗教改革、旧教・新教の対立
ローマ教皇を頂点とした教会を絶対とする信仰のあり方に疑問が提出されるようになり、特にルネサンスと連動して、改革の先駆的な運動が起こるようになった。すでに早く、イギリスのウィクリフやチェコのフスらはローマ教皇の絶対性に疑問を抱き、聖書に帰ることを説いていたが、1414年のコンスタンツ公会議では共に異端として断じられた。それを機会にフス戦争が起こるなど、カトリック教会の動揺が深刻になっていった。宗教改革 ローマ教皇レオ10世がサン=ピエトロ大聖堂の修築費用を贖宥状の販売で得ようとしたことに、ドイツの聖職者ルターが疑問を抱き、1517年に九十五ヶ条の論題を発表したことから宗教改革が始まった。
この16世紀初めのルターのはじめた宗教改革によって、キリスト教の西方教会は大きくカトリック(旧教)とプロテスタント(新教)に分裂した。プロテスタントにもさまざまな教義の違いがあり、多くの教派に分かれることとなった。 → イギリス宗教改革 イギリス国教会 イギリスの宗教各派
(9)東方教会のその後
ビザンツ帝国の保護によってギリシア正教はコンスタンティノープル総主教を中心に信仰世界を守りながら、9世紀ごろからロシア人などスラヴ人に広く布教され、次第に東欧に広がっていった。988年にはキエフ公国の大公ウラディミル1世がギリシア正教に改宗、キエフに府主教座が設けられた。このロシア人国家はやがてロシアの中心地域に広がって行き、1326年には府主教座をモスクワに移し、ロシア正教会としての発展していく。東方教会はつねにイスラーム教圏と接していたので、つねに厳しい状況であったが、特に13世紀のモンゴル人による侵攻は大きな試練であった。さらにオスマン帝国は小アジアを征服し、首都コンスタンティノープルに迫り、ついに1453年にコンスタンティノープルが陥落した。1000年を越えるキリスト教世界の一つの中心地がイスラーム教徒の手に落ちたことは大きな衝撃であった。このときハギア=ソフィア大聖堂はイスラーム教のモスクに造り替えられた。しかし、間違ってはいけないことは、これでコンスタンティノープル総主教が断絶したのではない。総主教座はイスタンブルのファナル地区に移され、そこで存続している。
一方、発展を続けたロシア国家では、1589年、モスクワの大主教が、イスタンブルのコンスタンティノープル総主教から独立した一つのギリシア正教会総主教として承認された。このようにビザンツ教会ではコンスタンティノープル総主教がカトリック教会におけるローマ教皇のような統制力を持つのではなく、ロシア・ブルガリア・ルーマニア・ギリシアなど各国の総主教がそれぞれ独立した宗教団体を作っていくという、いわば「のれん分け」式に広がっていった。
(10)キリスト教の宗派の分け方
・西方キリスト教 ・カトリック(旧教)①・プロテスタント(新教)②
・東方キリスト教 ・ギリシア正教(会)③
・東方諸教会④
①カトリックはローマ教皇を頂点としたヒエラルキアのもとで全世界のカトリック教会を統括している。
②プロテスタントはルター派・カルヴァン派に大別される。ほかにカトリックとの中間的なイギリス国教会(聖公会)がある。さらに、ルター派・カルヴァン派からはさまざまな宗派が分かれている。
③ギリシア正教(東方正教会)にはロシア正教会、ギリシア正教会、ルーマニア正教会、セルビア正教会など多数がある。コンスタンティノープル総主教も存続しているがカトリックの教皇と違ってギリシア正教の全教会を管轄しているのではない。
④東方諸教会とはローマ教会から異端とされたネストリウス派(現在はほぼ絶滅)と、カルケドン公会議で異端とされたので非カルケドン派と総称される単性説を掲げる・コプト教会、・アルメニア教会、・シリア正教会(ヤコブ派教会)、・エチオピア教会など諸派がある。それぞれローマ教会より古い歴史を持ち、自らを正当と主張しているので「正教会」と名乗っている。
※このような分類は便宜的なもので、必ずしも厳密ではない。例えば、マロン派のようにカトリック系でありながらギリシア正教の祭式に従っている例もある。