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仏典結集

ブッダ死後、その言説を統合しようとした試み。4回行われ前3世紀のアショーカ王の時の第3回が最も重要。これによって仏教経典の編纂が進み、教義が体系化された。。

 結集は「けつじゅう」と訓む。ブッダの死後、教団の内部に意見の違いがあらわれたため、ブッダの教えを正しく伝える必要が生じ、伝えられた説法を整理して統一を図る必要が生じた。そのために行われた仏典の編集作業を結集といい、ブッダの死の翌年に教団の長老たちが集まった第一結集、約百年後の第二結集、アショーカ王の時代に第三結集が行われたと伝えられている。次いでクシャーナ朝のカニシカ王の時に、第四回目の仏典結集が行われた。
 これらの結集の結果、仏教経典の体系ができあがり、経蔵(ブッダの教え)、律蔵(仏教徒の戒律)、論蔵(仏教の理論的研究書)の三種類に分けられた。これをあわせて三蔵という(蔵は籠の意味)。また、この過程で、保守的な長老たちの解釈と、進歩的な一般信徒の解釈の違いも明らかになり、上座部と大衆部の分裂が起きてくる。

参考 アマルティア=センの仏典結集論

 現代インドを代表する経済学者で思想家、ノーベル賞受賞者のアマルティア=センのインド論集『議論好きのインド人』に次のような一説があったので引用する。
(引用)インドにおける公共的な論議の歴史では、初期のインド仏教徒にかなりの貢献をみとめなければならない。かれらは、社会進歩の手段として討論に大いに熱意を示したからである。この熱意の結果が、世界で最も早く行われた数回の公開集会であった。いわゆる「仏典結集」は、相異なる立場のあいだでの対立を解決することを目的とし、さまざまな地から多様な思想潮流の代表たちを集めた。四回の主な結集のうち最初のものは、ゴータマ・ブッダの死の直後、ラージャグリハにて開かれた。二回目は、およそ一世紀の後ヴァイシャーリーで、最後のものはカシュミールで紀元2世紀に行われた。結集のなかで最大の、そして最もよく知られた第三回の結集は、アショーカ王の庇護のもと、紀元前3世紀、当時のインドの首都パータリプトラ(今日のパトナー)で開かれた。これらの結集の主たる関心は、宗教的な教義と実践における違いを解決することにあったが、社会的。市民的な諸義務という問題も取りあげ、さらに広範囲にわたる影響としては、異端のある問題についての開かれた討論の伝統を確立し促進させた。<アマルティア・セン/佐藤宏・粟屋利江訳『議論好きなインド人』2008 明石書店 p.40-41>
 なかでもアショーカ王は、敵意と暴力をともなうことなく公共的な討論が行われることに細心の注意を払った。かれは「不適切な状況で、自分の属する宗派を称揚し、他の宗派を貶めるような言葉は抑制し、適切な状況でも穏当であること」を要求し、議論を交えるときでさえ、「いかなるときも、他の宗派は正当な敬意を払われるべき」とした。アマルティア=センの指摘によれば、アショーカ王の公共的討論の擁護は、およそ2000年後、ムガル皇帝アクバルによって支持され、アクバルは「伝統への依拠」ではなく「理性にもとづく対話」を堅持した。この熟慮は、参加型の政治にとって開かれた公共的論議が中核的な役割を果たしている民主主義に向かうより大きな見取り図の中で重要な一部を構成する。<アマルティア・セン『前掲書』p.42>
 インドでは仏教は衰退し、ヒンドゥー教が民衆に定着、さらにイスラーム教勢力による支配へと続き、イギリス植民地支配のもとでヒンドゥー教とイスラーム教の対立は深刻化し、ついにインド・パキスタンの分離独となった。現代インドでもヒンドゥー教徒とイスラーム教徒、さらにシク教やパールシー、少数ながら仏教徒などの宗教集団の対立問題(コミュナリズム)はつづいている。しかし、アマルティア=センはインドの宗教対立の歴史のなかに公開討論を大切にする民主主義の伝統が生きているのだ、と論じているようです。