アクバル
16世紀後半、インドのムガル帝国全盛期の皇帝。人頭税(ジズヤ)の廃止などのヒンドゥー教徒との融和を図りながら、北インドをほぼ平定し、さらに領土を広げた。
アクバル帝
アクバルは1564年、非ムスリムへの人頭税(ジズヤ)を廃止するなどのヒンドゥー教徒との融和を図る一方、1576年までにはベンガル王国を征服して北インドをほぼ平定した。1580年には中央アジア系の貴族の反乱を、ムスリムとラージプート豪族層を結集して平定し、強大な国家を築き上げ、さらに晩年には北部デカンも支配下においた。アクバル帝は、ヒンドゥー教徒勢力との融和を図ったことと、軍事制度・官僚制度整備し、その基盤となる土地制度や税制、貨幣制度などを統一してムガル帝国の繁栄の基礎を作ったことが重要である。 → 『アクバル・ナーマ』
アクバルの治世は1556年~1605年であるから、イギリス(厳密にはイングランド王)のエリザベス1世の治世1558年~1603年とほぼ重なっている。二人の間に接触はなかったが、後のインドとイギリスの関係を考えると興味深い。なお、神聖ローマ帝国ではフェリペ2世(在位1556~1598)、フランスではアンリ4世(在位1589~1610)と重なっている。アジアではオスマン帝国のスレイマン1世の治世が1566年に終わり、イランのサファヴィー朝にはアッバース1世の治世が1587年に始まる、という時期であった。ちなみに日本では1560年の桶狭間の戦いで勝った織田信長が登場、豊臣秀吉へと続く織豊政権を経て江戸幕府が成立する時期に当たる。
権力の掌握
父フマーユーンの急死を受けて1556年に即位したときは、わずか13歳であった。また彼が即位したころ、その支配領域はパンジャブの一部に限られ、カーブルやデリー、アグラには独立した勢力が存在していた。アクバルを助けたのがバーブル以来の家臣バイラム=ハーンであり、その計略によってデリーとアグラが奪回できた。その結果バイラム=ハーンの専横が目立つようになり、1560年後宮勢力に後押しされたアクバルの宮廷革命が成功し、バイラム=ハーンは追放された。その後も乳母の一族アドハム=ハーンがアクバルの宮廷で宰相を殺害する事件が起きたが、アクバルは激怒してアドハム=ハーンをヴェランダから突き落とす刑に処した。こうして権臣や後宮の勢力を徐々に抑えたアクバルは次第に権力を掌中に収め、1568~70年代にラージプート諸侯と同盟しながら敵対勢力を次々に征服し、1605年の没年には北インドの大半(現在のパキスタン、バングラデシュを含む)をその支配下に治めた。<『ムガル帝国から英領インドへ』中央公論社 新版世界の歴史14 p.120>新都の造営
1571年にはアグラの西方37キロの近郊に、新都ファテープル=シークリーを造営(副都という説明もある)した。これは城塞都市として建造され、城壁や主要な建物には赤砂岩が用いられ、簡素で堅牢な建造物群となっており、アグラのタージ=マハルと好対照をなしている。とくにファテープル=シークリーはヒンドゥー文化の伝統を取り入れたインド=イスラーム文化の代表例とされている。しかし、この新都城はアクバル在位中に、わずか16年で放棄され都はラホールに遷ることになった。それは砂漠地帯であるため給水に難があるためだったという。ヒンドゥー教徒との融和策
中央アジア出身の高官を抑えるとともに1562年にラージプート族(ヒンドゥー教徒)出身の女性と結婚してヒンドゥー教徒徒との融和策をとり、さらに1564年に人頭税(ジズヤ)を廃止してインドの統一を図った。こうしてアクバル帝は、イスラーム教・ヒンドゥー教の宗教的対立を超えた新しい「神の宗教」(ディーネ=イラーヒー)を自ら説き、インドの統一的統治権を実現しようとした。Episode ヒンドゥー教徒との結婚
1562年1月、アクバル帝(19歳)はラージャスタンのアジメールにある聖廟に参拝途上で、帝を待ちかまえていたアンベールの王ビハーリー=マルから臣従の誓いを受け、長女を嫁がせる申し出を受けた。アクバル帝はこれを受け容れ、参拝の帰途2月始めに結婚式が行われた。アンベールの王はラージャスタンのラージプートでムガル皇帝に臣従した最初の王となった。このアンベールの王女は次の皇帝ジャハーンギールの母となった。また、その兄マーン=スィングはアクバル帝に仕え、他のラージプート諸侯征服戦の先頭に立って活躍し、アクバル帝の宮廷の「九つの宝石」の一つと言われた。<『ムガル帝国から英領インドへ』中央公論社新版世界の歴史14 p.121-123>軍事・官僚制度の確立
マンサブダール制とジャーギール制を採用した。その意義については次の文を参照。「マンサブダーリー制(マンサブ制)、ジャーギールダーリー制(ジャーギール制)とも呼ばれるこの制度はムガル帝国の軍事・官僚制機構の中核をなす制度で、1580年の「大反乱」鎮圧後に確立されたものである。マンサブダールはペルシア語の「禄位」「位階」(マンサブ)と「持ち主」(ダール)の合成語、つまり禄位(位階)保持者のことで、ダーリーはダールの抽象名詞である。ジャーギールダールの「ジャーギール」は、ペルシア語の「場所」(ジャー)と動詞の「取る」(ギリフタン)の語幹、給与地あるいは知行地と訳されている。マンサブ制とジャーギール制は表裏の関係にあり、マンサブの経済的表現がジャーギールである。…………帝国の官職者の給与は、原則として帝国から一定額の徴税を認められた土地として与えられた。総給与は本人と家族の生活維持費と維持を義務づけられた兵馬の費用の合計で、給与地(ジャーギール)は短期の所替えが原則であった。…………皇帝はマンサブとジャーギールを授与・没収し、また加増・削減した。とくにジャーギールを帝国各地に分散・分割して授与することによって、その所替えとともにマンサブダールによる一円支配と在地化の防止をはかった。…………皇帝権力の専制化はこの制度の確立をもって完成し、ここに「ティムール=モンゴル王朝」は「ムガル王朝」(インド=モンゴル王朝)に転生した。」<『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史中央公論社新版14 p.134-135>
『アクバル・ナーマ』
アクバルの側近には有能な人物が多かったが、その一人としてすぐれた行政手腕を発揮したのがアブール=ファズルという人物であり、アクバル帝の編年体の統治記録として『アクバル・ナーマ』(1596年成立)を書いた。彼はアクバルの同意を得ながら記録したといわれ、1602に暗殺されたが、アクバル帝最末期の記録は別人の手によって補完された。『アクバル・ナーマ』にはアブル=ファズルが理想とした皇帝像として次のような文が記されている(1556/57年の記述)。
(引用)皇帝権は神からの贈り物であって、何千という重要な諸条件が一人の人物に集まってくるまでは、この偉大な贈り物が神の宮廷から授けられることはない。血筋の純粋さや、財産の集積、民衆の結集は、この名誉ある地位にとって十分なものではない。賢者たちに明らかなのは、その崇高なる資質のいくつかが高邁な洞察力や、気高い慈愛心、大きな度量、強い忍耐力、優れた理解力、(以下、優雅、正義感、威厳などの徳目を挙げ、これらの資質を付与された者でも)、不穏当な欲求や不相応な怒りを克服する知見がなければなりえない。ここには皇帝権は神からの賜物とするヨーロッパ近世の絶対君主の帝王神権説に近い考え方が見られることと、「普遍的和解(スルヒ・クル)」の原則を明示し宗教的、社会的な差別的措置を否定していることが注目される。<同上書、近藤氏の解説による>
さらにこの高貴な位に即いたとしても、普遍的和解(スルヒ・クル)を求めようとせず、また諸民族と諸階層に対して実母となったり継母となったりすることなく(訳者註 差別的政策をとらず)、それぞれに対して養育と慈愛の眼をむけようとするものでなければ、この至高の支配位にふさわしい者とはなりえない。(下略)<歴史学研究会『世界史史料』2 近藤治訳 岩波書店 p.93-94>
ポルトガルの進出
ムガル帝国の成立以前の1498年にヴァスコ=ダ=ガマが南インドカリカットに到達して以来、すでにポルトガルのインド進出は始まり、1510年にはゴアを占領して海岸部で南インドの土侯と香辛料などを取引を始まめていた。ポルトガルはその際、武力を行使したが、その支配は内陸部には及ばず、交易拠点をイスラーム商人から守ることが主眼であった。アクバル帝時代はインド北西海岸のグジャラート地方にその支配が及んだが、南インドには及んでいなかった。1573年にはゴアのポルトガル総督がアクバル帝に使節を派遣、アクバル帝もキリスト教には寛容で、その交易活動に対しても妨害しなかった。Episode アクバル大帝の墓
アクバル帝の墓廟はアグラの北西10キロのスィカンドラにある。しかし写真で見ると、フマーユーン廟やタージ=マハルのような壮大なものではない。1687年、アウラングゼーブ帝(第6代ムガル皇帝)のヒンドゥー抑圧政策とムガル帝国の地方官の収奪に抗して立ち上がったラージャルームの率いるジャート農民によって略奪され、アクバル帝の遺骨は焼き捨てられたのだという。<『ムガル帝国から英領インドへ』世界の歴史中央公論社新版14 p.137>ヒンドゥー教徒との融和をはかったアクバル帝にとってはひ孫のやったことでとんだとばっちりをうけたことになる。参考 皇帝アクバルの世俗主義
世界的に知られているインド人で経済学者アマルティア・センが、2002年2月に東京大学で行った講演の中に、次のような一節がある。(引用)多くのインド人は、インドが世俗的国家であることに誇りを持っています。インドの世俗主義を覆そうとする政治的集団もあるのですが、インドの世俗的憲法と非宗教性を支持する大多数の国民によって、これらの動きは少なくとも今の段階では抑え込まれています。ここで、インドの歴史上もっとも力強くまた雄弁に非宗教的な国家の必要性を唱えたのが、四百年前のムガール帝国のムスリム皇帝アクバルであったことを確認しておくのが重要です。(中略 アショカ王も宗教的寛容と提唱していることについて述べる)アマルティア・センはさらに「1590年代にアグラでアクバルが宗教的寛容の宣言を発したとき、ヨーロッパではまだ宗教裁判が行われていました。1600年には、ローマのカンポ・デ・フィオーリでジョルダーノ=ブルーノが異端として火あぶりの刑に処せられています」と指摘している。これは2000年代に入ってにわかに強くなった、例えばサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』のような、文明間の衝突を不可避として煽るような議論に反対して、宗教的専制国家と思われがちなムガル帝国でもアクバル帝の世俗主義・宗教的寛容の提唱があったことを述べ、宗教対立は不可避ではないことを主張したものである。
それでもやはりアクバルこそがインドの世俗主義を真に擁護した最初の皇帝といえるでしょう。なぜならば、1590年代に導入されたアクバルの法典は、現代でも広い関心を集め、法律学においても、現代インドの世俗政治における思想や優先順位に反映されているからです。アクバルの提唱した主義は法典や実践を通じてのみまらず、「何人たりとも宗教を理由に干渉されることなく、いかなる人も彼の好む宗教に傾倒することを許されるべきである」というような、さまざまな政治声明にも反映されています。「伝統への依拠」ではなく「理性の追求」が彼の基本テーゼを構成した究極の指針だったのです。アクバルは、自らが追求した「理性の道」(rahi aql)のもとに、開かれた対話と選択の自由の必要性を主張し、主流であったイスラム教徒やヒンドゥー教徒の哲学者だけでなく、キリスト教徒、ユダヤ教徒、パールシー教徒、ジャイナ教と、そして紀元前6世紀頃成立したインドの無神論思想の一つであるチャールヴァーカの信者までも招き、繰り返し議論させたのです。・・・<アマルティア・セン/加藤幹雄訳『グローバリゼーションと人間の安全保障』2017 ちくま文庫 p.96-98>
世界史の学習から見えてくることは、確かに文明間、宗教間の対立があったことは事実であるが、その多くは原因というよりはせいぜい「背景」というのがふさわしく、対立の原因は文明や宗教の違いではなく、政治的・経済的な「権力」の行使にあったということではないだろうか。我々にとって、ムガル帝国のアクバル帝の存在は世界史学習によって得られることで、それ以外にも寛容な施策がとられていることを知ることができるので、アマルティア・センの主張は理解できる。もっとも現在のインドが、センの言う「世俗主義を覆そうとする政治的集団」といえるインド人民党(ヒンドゥー至上主義をかかげている)が政権を握っているのも現実なので、手放しで楽観はできないが。
アマルティア・センはインド出身の経済学者で『不平等の経済学』や『貧困と飢餓』などの著作で知られ、貧困、飢餓、不平等などに対して「人間の安全保障」を実現することを提唱しており、1998年にノーベル経済学賞を受賞している。<2024/6/1紀>