アショーカ王
前3世紀、マウリヤ朝全盛期の王。領土を北インド全域に及ぼした。仏教を篤く信仰するようになってから篤く保護し、仏法(ダルマ)にもとづく統治を行った。
サールナートの石柱碑
柱頭の獅子と法輪
アショーカ王と仏教
アショーカ王は、デカン高原の東南部のカリンガ国を征服したとき、王自身が戦争で多くの犠牲を出したことを深く恥じて、仏教に深く帰依するようになった。- ダルマによる政治 前258年に、ダルマ(普遍的な仏法)にもとづく政治を行うことを宣言し、2年後にそれを詔勅として発布した。詔勅には不殺生と正しい人間関係の尊重が説かれていた。
- 石柱碑、磨崖碑の建設 石柱に刻んだり(石柱碑)、崖に刻んだり(磨崖碑)して民衆を教化した。それらの碑文は、民衆語であるプラークリット語を、インドの文字であるブラーフミー文字で書かれていた。それらは現在もインド各地(パキスタンやアフガニスタンも含み)に現存しており、マウリヤ朝の統治範囲を示している。
- 仏典の結集 アショーカ王の時代に3回目の仏典結集が行われ、仏教史上理想的な王とされている。
- 仏塔の建設 アショーカ王は全土に仏塔(ストゥーパ)を建て、仏舎利(ブッダの遺骨)を分納した。伝承によると王は8万4千の仏塔を建てることを目指したという。現存する石塔には、インド中央部のサーンチーの石塔が有名である。
- スリランカへの布教 またアショーカ王は前240年ごろ、王子をインドの南に位置する島、スリランカに派遣して仏教を布教した。またビルマに布教されたのもこの時代であり、これらは後の大乗仏教と異なる部派仏教であり、南伝仏教(後に上座部仏教と言われるようになる)としての東南アジアの仏教の繁栄の基礎となった。
Episode インドの国旗の法輪
上の写真のサールナート発見のアショーカ王の石柱碑の柱頭には、四匹の獅子が彫られ、その足下に車輪が描かれている。この車輪は「法輪」(ダルマ・チャクラ)といわれ、仏の教えである真理と正義によって世界がよく治まることを象徴している。現在のインド共和国の国旗の中央に描かれているのもこの法輪である。Episode 暴虐の王から法の王へ
アショーカ王は兄弟と争って即位し、そのとき99人の異母兄弟を殺したという。即位後も暴虐の限りを尽くし、人々からチャンダ・アショーカ(暴虐阿育)と呼ばれ恐れられた。その王が仏教に改宗したのは即位後8年のあるとき、名もない比丘(僧侶)の説法を聞いて改心したからで、それ以後は仏法を奉じ正しい政治を行ったので人々からダルマ・アショーカ(法阿育)と呼ばれ敬愛されたという。彼が悔いたのは、デカンの強敵カリンガ国を征服したとき、民間人を含む数十万の犠牲を出したことだった。改宗したアショーカは全土を仏塔で飾ろうと思い立ち、ブッダの没後に建てられた仏塔から仏舎利を取り出し、新たに八万四千の塔に分納したと伝えられている。<山崎元一『古代インドの文明と社会』世界の歴史3 中央公論社 1997>アショーカは生きている
アショーカ王が掲げた法(ダルマ)に基づく政治理念は、当時としてはあまりに高遠にすぎた。ひとことでいうならば、当時のインドの経済的・社会的文化状態に対して、マウリヤ帝国はあまりに大きすぎた。マウリヤ王朝の政治理念はあまりにも現実から離れすぎていた。そのためマウリヤ王朝はアショーカ王の没後、次第にその勢力を失い、前180年ごろ同王朝の将軍プシャミトラ王に滅ぼされ、インド全体は再び分裂状態になる。(引用)このような挫折にもかかわらず、アショーカ王は、いまなおけっして死んでいない。彼は現代によみがえりつつある。アショーカ王政治理念は、現代の連邦であるインド共和国では、国家運営の指標としての意義を持っている。これは、仏教史学の大家中村元(1912-)の著作。「世界の相対立する二つの軍事的勢力」とは冷戦下の米ソのことで、インドは第三世界のリーダーとして期待されていた。現在のインドも転法輪を国旗にかかげているが、中村元のいうアショーカ王の政治理念はいま生かされているだろうか。大国となったインドの今後に注目である。 → インド(現代)
1950年1月26日に、デリーで共和国記念日の祭典が盛大に催された。この日、新大統領ラジェーンドラ・プラサードの就任式典にはアショーカ王石柱の四頭の獅子が飾られて、満場を見わたしていた。この獅子が、新しい大統領旗にも描かれているだけでなく、インド政府の文書をはじめ、インドを象徴するさらゆるものに用いられている・・・。また、アショーカ王の石柱には輪が刻まれていて、これは仏教の転法輪(説法)を象徴するものであったが、それはいま、インド共和国の国旗にも表されている。
いまやインド共和国は、アショーカ王の政治理念の実現を表にかかげつつ、世界の相対立する二つの軍事的勢力からいちおう離れて、インドの伝統的な理想の具現を夢見る少年のように、苦しく若々しい歩みを開始しているのである。<中村元『古代インド』1977 講談社学術文庫版(2004) p.196>