稲作農業
主要な農作物の一つ。現在では長江下流に始まり、広くアジアで栽培されるようになったと考えられている。
中国の長江下流域では前5000年頃、稲作農耕が開始されたことが河姆渡遺跡などの発掘で明らかになっている。最近では、湖南省彭頭山遺跡では、土器の胎土内から炭化イネが発見され、そのC14年代測定から紀元前7000年以上の年代が得られ、稲作農業の起源を長江中流に求める説も有力になっている。 → 長江文明
稲作の起源
イネの栽培はいつ、どこで始まったのか、という疑問はこれまで生物学者、農学者、考古学者などのなかで大きなテーマとされ、これまでは他の栽培植物と同じくいくつかの地域で多元的に発生したのではないかと考えられ、その中で最も早いのは中国の南部の雲南地方とインドのアッサム地方である、というのが有力な学説であった。しかし、1970年代から考古学上の新たな発掘や、DNA分析、年代測定法、プラントオパール(植物の葉脈に含まれるガラス質で、植物の種類を特定することが出来る)の研究などが進んだ結果、新たな学説が定説になりつつある。それは、栽培植物の起源は一元的であり、イネの場合は中国の長江中流域であるとする説である。栽培種のイネの前提として、この地域には野生のイネが自生していたことがわかっており、およそ前7000年頃から栽培化が進み、前5000~3000年代には長江下流域(河姆渡文化)に及び、確実な栽培技術を持つ農耕社会が成立し、前3000年紀の良渚文化期に潅漑農業が始まり、首長制社会が形成されたと考えられている。<宮本一夫『神話から歴史へ』中国の歴史1 2005 講談社 p.87-90>稲作の伝播
今から約1万年前、新石器時代の早期の長江中流で始まったイネの栽培化は、次第に長江下流域・淮河流域へと拡散していった。とくに新石器時代前期・中期に温暖湿潤期(ヒプシサーマル期)となり、栽培イネそのものが植物的な進化があり、北方への拡散の導因となったと思われる。新石器時代中期には黄河流域に入り、仰韶文化のアワ・キビ雑穀農耕社会にイネが取り込まれていった。山東半島ではやや遅く、新石器時代後期の竜山文化のなかに、イネの出土例が始まる。その南部の海岸部ではイネを主体とした農耕が中心になっていく。朝鮮半島では西海岸を中心にすでに中国東北部を通じてアワ・キビ雑穀農耕が拡散していた(朝鮮半島初期農耕化の第一段階)が、前2000年頃に山東半島から海を渡って半島南部にイネが伝播し、畑作農耕の中にイネが取り込まれていった(第二段階)。さらに山東半島南部の水田を持つ本格的な水稲農耕が遼東半島を経て朝鮮半島に伝わり、前2000年紀の終わりごろ朝鮮半島南部に達する(第三段階)。この朝鮮半島における本格的な水稲農耕こそが日本列島の弥生社会の母胎となったと考えられる。<宮本一夫『神話から歴史へ』中国の歴史1 2005 講談社 p.193-201>