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長江文明

古代文明の一つ。長江流域の文明。最近では稲作農業の起源が長江中流域に求められている他、下流域の独自の農耕文明である良渚文化、上流の青銅器文明である三星堆文化などが注目されている。華北では畑作を主とした農耕文明がうまれ、それらが融合されて、中国文明が形成されたと考えられる。

 従来、中国の文明は「黄河文明」と言われ、黄河流域に興った、とされてきた。しかし、現在では、長江(チャンチアン)下流域にも独自の農耕文明が存在していたことが判明している。そこで黄河文明という用語は使用せず、「中国文明」または「河江文明」(河は黄河、江は長江を表す)という言い方が一般的になってきている。
 この長江流域の文化では、前5000~3300年頃の稲作農業の遺跡として知られる河姆渡遺跡などである。最近では稲作農業の起源を長江下流に求める説も出されている。なお、長江文明には、前3300年~前2200年頃の浙江省を中心とした新石器段階の良渚文化、上流の四川地方に独自の発展をした青銅器文明である三星堆文化が最近注目を集めている。

稲作農業の長江中流起源説

 稲作農業の起源をどこに求めるか、古くから研究され、議論されてきた。かつては中国の雲南地方やインドのアッサム地方など、いくつかの地域で多元的に発生したのではないか、という説が有力であったが、最近のDNAの分析などを応用した研究によって、栽培食物の起源は一カ所であることが分かってきた。イネの場合、最近有力となっているのが、長江中流域の彭頭山遺跡であり、出土した土器の胎土内にふくまれる稲籾・稲藁の炭素14年代測定値によれば、起源前8000年から前7000年に属するという。稲作はその後、気候の温暖化・湿潤化にともなって北上し、長江・淮河流域を越えて、前5000年紀の仰韶文化期に黄河流域に進出した。<渡辺信一郎『中華の成立 唐代まで』シリーズ中国の歴史① 岩波新書 p.9>