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楚の荘王

春秋時代の中国南部の楚の王。五覇の一人に加えられることもある。

 古代中国の春秋時代、長江中流のの荘王(在位前前613~前591)は、前597年に北方の有力国のと戦ってそれを破り、中原に進出した。後に楚の荘王は、春秋の五覇の一人に加えられることもあるが、荘王みずからは会盟を主催したり、覇者を称したことはない。このころは周王を立てて尊王攘夷を掲げる意味はなくなっていた。

Episode 「鳴かず飛ばず」

鼎
殷(商)の青銅製の鼎
北京故宮博物館蔵
 楚の荘王は即位してから3年の間は号令を発することなく、日夜享楽にふけり、「諫める者あらば死刑に処す」とふれを出した。伍挙というものが諫めようと宮中にはいると、荘王は左に鄭の女を抱き、右に越の女を抱いて、鐘太鼓の間に座っていた。伍挙は荘王に謎をかけた。「鳥が阜(おか)におって、三年のあいだ飛ばず鳴かずでした。これは何という鳥でしょうか」と。荘王は「三年のあいだ、飛ばないが、飛べば天まで昇るだろう。三年のあいだ鳴かないが、鳴けば人を驚かすだろう。挙よ、引き下がれ。わしは、わかっておるのじゃ」と言った。その後も淫楽はつのるばかりであったが、大夫の蘇従が諫めると、王は「そちはあの布告を聞いていないのか」と言った。従は答えて、「わが身を殺しても、君を賢明にしたいのがわたしの願いです」と言った。ようやく王は淫楽をやめ国政に身を入れるようになったという。<司馬遷『史記』3 世家上 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫 p.238>

Episode 「鼎の軽重を問う」

 前606年、楚の荘王は軍を北上させ、周の都洛陽の郊外につらねて周を威圧した。周の定王は大夫王孫満に命じて荘王をねぎらわせた。荘王が周の王室に伝えられる九個の宝鼎の大小軽重をたずねると、王孫満は「周王が位を保つのは、徳にあって鼎にあるのではありません」と答えた。そこで荘王は空しく帰還した。鼎は三足土器の形をした青銅器で、王位の象徴として、夏・殷・周と伝えられたと言われるものであり、荘王はそれを手に入れたいと意図を持っていたことを暗示している。この故事から、「鼎の軽重を問う」という言葉が生まれた。<司馬遷『史記』3 世家上 小竹文夫・武夫訳 ちくま学芸文庫 p.238/『春秋左氏伝』上 小倉芳彦訳 岩波文庫 p.413 に同様の話がある。>