印刷 | 通常画面に戻る |

テオティワカン文明

メソアメリカ文明の一段階。前2世紀から7世紀ごろまでメキシコ高原で繁栄した都市文明。太陽のピラミッドなど巨大石造建築を残した。

 前2世紀頃、メキシコ高原に成立したメソアメリカ文明の一段階の文明。「太陽のピラミッド」(山川・詳説世界史口絵参照)と「月のピラミッド」として知られる大石造建造物を残している。また農事を司る神々、多彩な彫刻やフレスコ画などの文化がみられる。同じころ、メキシコ各地にはユカタン半島のマヤ文明の他、いくつかの都市文明が形成された。メキシコ中央高原のテオティワカン文明は、7世紀頃から衰退。かわってこの文明を継承したトルテカ文明が栄えた。

巨大な宗教都市テオティワカン

 テオティワカンは海抜2200mのメキシコ市の北東50kmのところにあり、現在では遺跡として残されているだけであるが、紀元後350年~650年の間はおそらく20万人の人口を要する大都市であった。当時でいえば20万を超えるのは、きわめて大きかったコンスタンティノープル、中国の洛陽、長安、建康、アレクサンドリア、クテシフォン、カナウジなどをあげるしかこれだけ大きな都市はなかったと考えられるから、その繁栄ぶりが理解できる。都市は太陽と月のピラミッドと南北に走る「死者の大通り」を基準として計画され、その建築は煉瓦(アドベ)で築いた傾斜した壁(タロー)と垂直の壁(タブレーロ)を交互に重ねる新しい様式で建造され、その表面を漆喰で覆って壁画が描かれた。太陽のピラミッドは高さ65m、底辺222 m×225 m、月のピラミッドは高さ47 m、底辺140 m×150 m、死者の大通りは長さ4 km、幅45 mに及ぶ。

Episode 太陽の伝説

 テオティワカンは西暦650~700年の間に、何ものかによって破壊された。「それとともに歴史は神話に転化した。伝説的な過去においてこの大都市をつくりだしたのは、もはや人間ではなく、巨人たちと神々自身であるとされたのである。こうしてこの巨大な廃墟の名称が生まれた。テオティワカンとは、神々の場所、つまり神々がつくりだされる場所という意味である。・・・伝説によるとテオティワカンを照らしていたのは「四番目の太陽」であった(それより前の三つの太陽はすでに消滅していた)。この太陽が死に、それとともに人類が絶滅すると、神々は自分たちをうやまってくれる者がいないことを嘆き、テオティワカンへ集まった。そして一柱の神が太陽に変わり、さらに一柱の神が月となった。いまでもわれわれを照らしているのは、この二柱の神であり、それらとともに歴史時代がはじまったのである。」後のアステカ王国の王も毎年この地に巡礼した。<メキシコ大学院大学『メキシコの歴史』1978 新潮選書 p.49> 

世界遺産 古代都市テオティワカン

 テオティワカンはメキシコ・シティの北東約40kmにあ。巨大な「太陽のピラミッド」や「月のピラミッド」、「死者の大通り」を中心とした都市遺跡が残されており、高度な石造建築技術や潅漑技術を知ることができることから、1987年に世界遺産に登録された。 → Unesco World Heritage 'Pre-Hispanic City of Teotihuacan'

テノチティトラン 太陽のピラミッド



メキシコ テノチティトラン遺跡
トリップアドバイザー提供



印 刷
印刷画面へ
書籍案内
メキシコ大学院大学
『メキシコの歴史』
1978 新潮選書

大垣貴志郎
『物語メキシコの歴史』
中公新書