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メキシコ

ラテンアメリカ諸国の大国。ヨーロッパ人渡来以前には独自のアステカ文明やマヤ文明が発達していた。16世紀以来スペインの植民地支配受け、1821年に独立。政情は安定せず独裁政権が続き、アメリカに敗れて北米大陸の広大な領地を失った。1911年のメキシコ革命で民主化が始まり、経済発展を遂げつつあるが、社会的不安も抱えている。

メキシコ GoogleMap

・メキシコ 小項目目次


  • メキシコの範囲
    現在のメキシコの領土は右の地図のとおりであるが、独立したときはさらにその北の現在のアメリカ合衆国のカリフォルニア州、テキサス州に及んでいたので注意を要する。


(1)メキシコ以前 インディオの文明の時代

長くメソアメリカ文明が繁栄した地域に、16世紀にスペイン人が侵入、その後19世紀初めまで植民地支配が続いた。

メソアメリカ文明の興亡

   北米大陸から中米に延びる広大な高原地帯にはインディオの人々がトウモロコシ栽培などを基本とする農耕文明であるメソアメリカ文明を形成していた。紀元前1200年頃にメキシコ湾岸にオルメカ文明が形成され、メキシコ高原のテオティワカン文明やユカタン半島のマヤ文明などに発展した。メキシコ高原では7世紀頃トルテカ文明が生まれ、さらに14世紀にはテノチティトランを都とするアステカ王国のもとで、高度なアステカ文明が繁栄した。

スペインによる植民地化

   コロンブスの西インド諸島到達以来、新大陸へのヨーロッパ人の侵入が開始されると、この地にはスペイン人が大挙して押し寄せることとなった。特に征服者と言われたコルテスは、火砲と騎兵で武装し、1521年にアステカ王国の首都テノチティトランを攻略し、アステカ王国を滅ぼした。この際、アステカ王国に対する他のインディオ部族の反発を利用したと言われている。その結果、1535年にこの地はヌエバ=イスパニャ植民地とされスペイン人の副王が統治することとなった。スペインは、メキシコ産の銀から鋳造したメキシコ銀をヨーロッパに持ち込むと共に、アカプルコ港と太平洋を越えてフィリピンのマニラを結ぶガレオン貿易の重要な輸出品となり、本国の繁栄をもたらした。
 スペインはメキシコに対し、初めはエンコミエンダ制(スペイン人入植者に現地人をキリスト教徒化することを条件に労働力として使役することを認める制度)、ついでアシエンダ制(現地人を債務奴隷として使役する大農園制)をしいて植民地支配を進めたが、支配権を握っていたのは本国生まれのスペイン人であったので、現地生まれのスペイン人であるクリオーリョインディオとの混血であるメスティーソの不満が強まっていった。


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メキシコ(2) スペインからの独立と苦難

メキシコ独立運動は1808年のイダルゴの蜂起に始まり、21年に立憲君主国として独立を達成した。24年に共和政となったが、政治的混乱が続き、独裁政治のなかでアメリカ合衆国によって北方の広大な領土を次々と奪われていった。

 フランス革命・ナポレオン戦争というヨーロッパの激動の影響でラテンアメリカの独立の気運が高まった。スペイン植民地で会ったメキシコも例外では無かった。

イダルゴの蜂起

 1808年、ナポレオンのスペイン征服を機に、メキシコのスペインからの独立運動が始まった。1810年9月、最初の蜂起を指導したイダルゴが捕らえられて処刑されると、メスティーソの神父のモレーロスがあとを継いで運動を継続した。彼も捕らえられ、スペイン駐留軍指揮官のイトゥルビデによって処刑され、運動は一時抑えられた。

1821年、君主国として独立

 1820年にスペイン立憲革命が起こると、植民地駐留の王党派であったスペイン人イトゥルビデが本国との分離を策し、富裕なクリオーリョ層を味方にし翌1821年8月24日に独立を宣言した。イトゥルビデは皇帝アグスティン1世として即位、メキシコは立憲君主国として独立したが、皇帝と議会はたちまち対立して早くも23年に皇帝は追放されイタリアに亡命した。そのとき、ウィーン体制下の神聖同盟諸国がスペインを支援してメキシコに出兵し、再征服するとの計画が持ち上がり、それに反対したアメリカはモンロー教書を出し、イギリスがそれに同調した。なお、イトゥルビデは翌24年にメキシコに戻るが、上陸と同時に捕らえられ、処刑された。

1824年、共和国となるも混乱続く

メキシコの領土縮小
 メキシコは1824年10月に憲法を制定して連邦共和制に移行し、スペイン人とクリオーリョの差別は撤廃されたものの、カトリック教会の財産と特権は保障されてなおも大きな勢力として残っていた。そのような中で、内部対立が続いて混乱し、カウディーリョと言われる軍事的地域ボス出身で、独立戦争でも活躍したサンタ=アナが大統領として独裁的権力を振るうようになった。

アメリカとの戦争 テキサス、カリフォルニアなどの喪失

 サンタ=アナ独裁政権の時代に、アメリカ合衆国が勢力を伸張させ、メキシコ領であったテキサスやカリフォルニアへの進出を図った。まず、メキシコ領テキサスに入植したアメリカ人は1836年テキサス共和国を独立させ、次いで1845年にアメリカ政府はそれを併合した。抗議し、抵抗するメキシコに対してアメリカは侵略を開始、1846年5月にアメリカ=メキシコ戦争となった。サンタ=アナ独裁体制は他にもインディオの反乱などを抱えており、アメリカとの全面的な抵抗をおこなえず、首都メキシコシティを占領されて敗れた。その結果、1848年の講和条約でカリフォルニアとニュー=メキシコをアメリカに売却し、それによってメキシコは建国時の国土の半分以上を失うこととなった。

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メキシコ(3) メキシコ革命への歩み

19世紀後半、メキシコで自由と民主主義を求めるレフォルマ戦争によってフアレス政権が成立。1861年、フランスのナポレオン3世が出兵して帝政が布かれたが、激しいメキシコ内乱の結果、共和政に戻る。1876年からディアス長期独裁政権が続き、1910年にマデロらによって独裁が倒されメキシコ革命が始まる。しかし革命後は急進的な農民解放をめざすサパタなどの路線と保守的な地主勢力との対立から混乱が続き、1934年のカルデナス政権によって一定の安定を実現した。

 メキシコは共和政を実現させたが、国内政治では軍事勢力による独裁政治が続き、対外的にはアメリカ合衆国によってメキシコ北部やカリフォルニアなどの領土を奪われ、苦境に立たされていた。

レフォルマ戦争からメキシコ内乱へ

 そのような中でようやく自由主義派による民主主義の実現に向けての運動が始まり、レフォルマ戦争(1858~61年)という内戦となった。この内戦はフアレスによって指導された自由主義派が勝利したが、内戦で苦しむメキシコに対し、フランスのナポレオン3世が、アメリカが南北戦争で介入できないことに乗じて、1861年メキシコ出兵を行った。その傀儡政権であるマクシミリアン皇帝が即位させ、メキシコは皇帝軍と共和国軍との「メキシコ内乱」となった。皇帝マクシミリアンはフランスの傀儡政権であるから、これは実質的にフランスの侵略に対数メキシコ民族の抵抗という形の戦争であった。結局フランス軍は撤退し、残されたマクシミリアンは捕らえられて1867年6月19日に処刑され、メキシコは共和制に戻った。うち続いたレフォルマ戦争とメキシコ内乱(本質はフランス侵略軍にたいする抵抗の戦い)を勝利に導いたフアレスはメキシコの「建国の父」と讃えられた。

フアレスからディアスへ

 フアレスが大統領の地位に居続けるうちに、その長期政権に対して、同じく内戦の指導者であったディアスとの対立が生じた。フアレスが1872年に急死した後、76年にクーデターで権力を握ったディアスが今度は大統領の再選を重ねて長期政権を実現し、独裁化する。そのディアス独裁政権に対する民主化の戦いが次に始まった。一般にこの動きをメキシコ革命と言っている。

メキシコ革命

 その間メキシコは外国資本の進出が進み、工業化など一定の近代化を遂げたが、地主制のもとでの農村の貧困も深刻になっていた。ついに1910年11月にマデロなどが指導して独裁政権打倒を掲げて蜂起、翌11年にディアスが亡命してメキシコ革命は成功した。しかし、その後は革命路線をめぐって政治改革を重視するマデロらの勢力と、農民軍を基盤として農地改革の実現を目指すサパタビリャなどの急進派との対立が続き、また反動的な軍事政権も出現するなど混乱した。マデロ大統領は1913年2月21日にアメリカの支援を受けた軍人ウェルタ将軍によって殺害され、その後も混乱が続いた。1917年にカランサ大統領の下で制定された憲法は、革命の成果を盛り込んで民主主義の原則をうちたて、これによって立憲革命としてのメキシコ革命は一段落したが、サパタなどの農地改革の要求は実現しなかった。

革命への反動期

 メキシコでは1910年から始まるメキシコ革命でディアス独裁政権を倒し、1917年には憲法を制定して民主的立憲政治を実現したが、なおも国内では大地主層などの保守派と土地改革を求める農民の対立が続き1920年代の反動期を迎えた。工業化に伴って外国資本の強まる一方で、都市住民と労働者も増え、政治的にも暴力的な暗殺による政権交代が続いて安定しなかった。

カルデナス政権での革命

 ようやく1934年に大統領となったカルデナス政権の下で土地改革、石油資源の国有化、労働者保護政策などの社会改革を実現し、政治的にはメキシコ革命党によるポピュリズム政治が機能して政権の安定がもたらされた。

メキシコ(4) 第二次世界大戦後のメキシコ

第二次世界大戦後から現代のメキシコまで。

戦後のメキシコ

 メキシコは第二次世界大戦には、日本の真珠湾攻撃を契機にアメリカに同調して連合国として参戦し、石油国有化以来冷却していたアメリカとの関係を改善した。1946年にメキシコ革命党が改称した制度的革命党はその後も安定した支持を受け、大統領選挙で常に候補者を当選させていった。また46年のアレマン大統領以降、軍人出身以外の大統領となり、軍の発言力は弱まった。

経済発展とその矛盾

 40年代から70年代の政治の安定期に、石油資源を背景とした工業化を推進し、農業国から工業国に転身した。その一方、農村の貧困、人口増加と都市移住に伴う環境の悪化などが問題になり始めた。1968年にはメキシコ経済の発展をアピールするメキシコ・オリンピックが開催されたが、経済発展の矛盾で疎外された学生や都市住民も不満を爆発させ暴動を起こした。この年はフランス、ドイツ、アメリカ、日本などでも「学生の反乱」があり、この「トラテロルコの夜」といわれた蜂起もそのような学生蜂起の一つであった。

反グローバリズムの動き

 1970年代には二度の石油危機で産油国のメキシコは潤ったがその反動で原油価格が下落すると、負債が増大し、80年代には何度か経済危機に見舞われた。90年代に入ると世界経済での新自由主義が幅をきかすようになり、1994年にはメキシコ経済危機が発生、その年正月には北米自由貿易協定(NAFTA)が発足すると、グローバリズムによる地域経済の破壊に反発するサパティスタ民族解放戦線(メキシコ革命の指導者サパタの名に因んだ急進派組織)の武装蜂起もあってメキシコは危機に陥った。
 80年代から長期政権を続ける制度的革命党の腐敗、硬直化が顕著となり、野党勢力が力を増すなか、2000年の大統領選挙で国民行動党の候補者が当選し、71年ぶりの政権交代が実現した。