土断法
南朝の東晋、宋で行われた戸籍登録法。現住地で戸籍に登録し、課税すること。
東晋から南朝の各王朝で採られた戸籍登録法。晋の南遷以来、華北から多くの漢民族が江南(長江下流域)に移住してきたが、その多くは無戸籍であったため、課税の対象とならなかった。また土地をもてないものは豪族に私有民となり政府の掌握に入らないことが多くなった。そこで、東晋および南朝の各政府は、移住者に対しても現住地で戸籍を編成し、豪族の私有民となることを防ぐとともに、課税の対象にしてその平等化をはかった。このように現住地で戸籍に編入することを土断法という。
※土断法については、教科書の「山川詳説世界史」、及び同社の「世界史B用語集」には記載がないが、重要な用語なので注意しよう。
庚戌の土断
最初の土断法は、東晋で実権を握っていた桓温(かんおん)が364年に実施した戸籍の実態調査であった。その命令が出された日の干支をとって「庚戌の土断」と言われている。義熙の土断
次いで最も大規模に実施されたのが、やはり東晋の部将で、実質的な権力を握った劉裕が413年に実施したもので、こちらはその年号(義熙9年)をとって「義熙の土断」と言われる。当時は、華北から江南に流入した人は、戸籍に登録されないか、登録されても一般民が黄紙に記された「黄籍」が用いられていたのに対して、白紙に記された「白籍」という臨時的な戸籍が用いられ、現在の居住地の他に故郷の本籍地がはっきりと注記され、租税の負担はかからなかった。劉裕の土断法は、「白籍」に載せられた人々を「黄籍」に入れて、一般民と平等の税役を負担させるものであった。また、同郷の人々が集まって住み着いたところを僑州とか僑郡県といったが、それらも一般の州県に併合した。これは都の建康のある揚州を手始めに順次実施されていったが、劉裕の出身地である徐州などは除外され、特権を保持した。<礪波護/武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』1997 中央公論社刊世界の歴史6 p.96>※土断法については、教科書の「山川詳説世界史」、及び同社の「世界史B用語集」には記載がないが、重要な用語なので注意しよう。