東晋
317年、西晋が滅んだ後に、王族の司馬睿が江南の建康を都として晋を再興した。華北が五胡十六国に分裂している間、江南を支配して、漢文化を次の宋以降の南朝に継承させた。しかし好転の権力は弱く、将軍による政権の争奪が続き、420年に最後の恭帝が劉裕に禅譲、宋に交替した。
西晋が匈奴の侵入を受けて滅んだ後、司馬氏の一族の司馬睿が江南で317年に晋を再建した。それを東晋という。420年までの約100年間、江南地方を支配し、華北が北方民族(胡人)の五胡十六国に分割されていた間、漢民族の文化を維持し、発展させた。呉の建業を、建康と改称して都とした。建康は以後、南朝の都として繁栄する、現在の南京である。
東晋を支えたのは、司馬睿とともに華北から移動してきた王導などの門閥貴族であったが、彼らは江南の土着の豪族と融和を図る必要があった。江南の豪族も晋の皇帝の一族司馬氏を迎えてその権威に服従することで、利害が一致し、当初は比較的安定した政治が行われた。
淝水の戦いにおける東晋の勝利は、その軍事力を支えていた北辺守備隊である北府軍の勢力を増大させることになった。しかし、東晋の宮中は気風が紊乱し、荒廃が進んでいた。北府軍を背景にした武人が政治に介入するようになった。
東晋を支えたのは、司馬睿とともに華北から移動してきた王導などの門閥貴族であったが、彼らは江南の土着の豪族と融和を図る必要があった。江南の豪族も晋の皇帝の一族司馬氏を迎えてその権威に服従することで、利害が一致し、当初は比較的安定した政治が行われた。
淝水の戦い
383年、華北の前秦(氐が建国した王朝)の苻堅が、中国統一を目指して南下すると、淝水(ひすい)の戦いで迎え撃ち、その南進を食い止めた。以後は淮河を境界とした南北で対抗するという形勢が定まった。淝水の戦いにおける東晋の勝利は、その軍事力を支えていた北辺守備隊である北府軍の勢力を増大させることになった。しかし、東晋の宮中は気風が紊乱し、荒廃が進んでいた。北府軍を背景にした武人が政治に介入するようになった。
孫恩の乱
華北から移って江南を支配した東晋政権に対し、江南の豪族のなかにはたびたび反乱を起こすものものいた。また東晋政府は華北政権との戦いの財政負担を農民に求めたので、農民の中に不満が蔓延していった。そのような社会不安を背景に、長江下流域でかつての民間信仰五斗米道の流れをくむ孫恩という人物が水上労働者を組織して399年に反乱を起こした。この反乱の鎮圧に向かったのが、北府と言われた軍団を指揮した劉裕だった。402年、劉裕に攻撃された孫恩の反乱軍は海上に逃れたが、孫恩が海中に身を投じると信徒も次々と投身したため、鎮圧された。劉裕はその後も散発的に続いた孫恩教団の残党を討伐し、さらに豪族の反乱を次々と鎮圧して名声を高めた。東晋の滅亡
396年には孝武帝が変死(後宮の女性と痴話喧嘩の末に絞め殺された)し、安帝が立ったが、統治能力に乏しく、403年12月には、北府軍に対抗していた西府軍の桓玄が東晋の安帝から禅譲されるという形をとって帝位につき、国号を楚とした。しかしわずか三ヶ月後に404年2月に劉裕がクーデターを起こし、桓玄を首都から追放、安帝を再び帝位に就けて復活させた。実権は劉裕に移ったことは明らかだったが、劉裕はなおも20年近く、東晋皇帝に仕える形をとった上で、ようやく420年に東晋最後の皇帝恭帝から禅譲を受ける形で帝位(武帝)について宋を建国した。貴族文化の隆盛
東晋は、皇帝にも暗愚なものが多く、政治的には混乱が続いたが、魏・西晋を経て形成された貴族社会が継承され、宮廷では高度な貴族文化が花咲いた。詩人では陶淵明が『桃花源記』などで名高く、画家では顧愷之が『女史箴図』を描いたのはこのころのことであった。書家の王羲之の傑作『蘭亭序』などが生まれた。総じてこの時代は、続く南朝の時代も含めて六朝文化といわれ、その最盛期となった。また、僧侶の法顕がグプタ朝時代のインドに行き、戒律を学んで帰り、仏教も盛んであった。