劉裕/武帝(宋)
中国・南朝の宋の初代皇帝、武帝。東晋で実権を握り420年禅譲を受ける。土断法を実施するなど江南の開発をすすめた。
もと東晋の有力な軍団の北府軍団の軍人であった。揚子江南岸の京口の貧民に生まれたが、その祖先はやはり北方からの流亡民であったようだ。北府軍団に入り、軍人として経験を積むうちに、399年、孫恩の乱という江南の海岸地方で起こった五斗米道系の宗教団体の反乱を402年に鎮圧に活躍して頭角を現した。
このような情勢の中、劉裕はすでに高齢(58歳)となったことで焦りを感じたか、ついに最終決断をし、420年、ついに東晋の皇帝から禅譲を受けて宋王朝(劉宋)を建国し、江南の豪族勢力を抑える軍事政権を樹立した。都は建康(現南京)に置かれ、宋・斉・梁・陳と続く南朝の最初の王朝となった。 → 南北朝
東晋の実権を握る
404年、クーデターを起こして東晋の実権を握り、相次ぐ反劉裕勢力の蜂起を次々と鎮圧したが、すぐに即位することなく、しばらくは東晋の皇帝を立てる姿勢を続けた。413年に土断法(下掲)を制定して財源の確保に成功したうえで、華北の平定に乗りだし、中原の長安・洛陽を支配している五胡の一つ羌の立てた後秦を攻撃した。417年に後秦は降伏し、劉裕は長安に入城した。洛陽を追われた漢人が建康に東晋を建てた317年から、ちょうど百年目のことだった。東晋に代わり宋を建国
長安を回復した劉裕の功績は絶大だったので、誰の目にも劉裕が帝位の禅譲を受けるものと見られるようになったのを受け、劉裕は長安に留まらず、建康に戻った。すると長安の留守をあずかる部将間の争いが起き、また北方の匈奴、赫連勃勃(かくれんぼつぼつ)がただちに長安を占領、夏国を建てたため、東晋の長安回復は成らなかった。このような情勢の中、劉裕はすでに高齢(58歳)となったことで焦りを感じたか、ついに最終決断をし、420年、ついに東晋の皇帝から禅譲を受けて宋王朝(劉宋)を建国し、江南の豪族勢力を抑える軍事政権を樹立した。都は建康(現南京)に置かれ、宋・斉・梁・陳と続く南朝の最初の王朝となった。 → 南北朝
土断法の実施
劉裕は東晋の実権を握ると、413年に土断法を実施した。これは、華北から江南に移住して、戸籍に登録されず、課税も課せられないでいた人々を戸籍に登録して、課税の平等化と同時に、国家の収入増を図ったものである。(引用)劉裕はこのような歴史の推移を背景とし、従来何人ももたなかった偉大な権力を利用して、懸案の土断を断行した。流寓の白籍が廃止され、人民は土着人と同じ黄籍に登録されて、政府の課する税と役とに服することになった。政府の財政がこれによって、飛躍的にゆとりができたことはいうまでもない。<宮崎市定『大唐帝国』中公文庫 p.200>
六朝文化のひろがり
東晋で劉裕が権力を奪うという政治不安が起こったことは、貴族社会とその文化に大きな衝撃を与えた。多くの貴族は現実逃避に流れ、詩作や清談に身をおいた。また、政治倫理を説いた儒教は人気が無くなり、道教思想や新来の仏教信仰に関心が高まった。すでに三国時代の魏から晋へ、晋から東晋へと続いていた政治不安から貴族の現実逃避は進み、六朝文化が形成されていたが、南朝のこの政変もまたその傾向を強めた。陶淵明が隠遁したのは劉裕のクーデターより20年前だが、彼もまたそのような傾向を代表する一人である。