後唐
中国の王朝で五代の2番目。都は洛陽。トルコ系遊牧民沙陀族である李存勗が向陵を滅ぼして建国した。
五代の二番目となる王朝。923年、トルコ系遊牧民である突厥系の李存勗(りそんきょく)が後梁を滅ぼし建国。都は洛陽。もとは山西地方を根拠地とするトルコ系遊牧民の沙陀族で、実質的初代の李克用の時に台頭し、たびたび開封の朱全忠政権を攻撃したが、失敗した。その子の李存勗の時に後梁を滅ぼし、ほぼ中国の中央部を支配した。
しかし、936年、節度使の石敬瑭(せきけいとう)が、反乱を起こし、契丹の太宗(耶律尭骨)の援助を受けて後唐を滅ぼした。それが後晋である。 → 五代十国の争乱
しかし、936年、節度使の石敬瑭(せきけいとう)が、反乱を起こし、契丹の太宗(耶律尭骨)の援助を受けて後唐を滅ぼした。それが後晋である。 → 五代十国の争乱
Episode 中国五代の本家「独眼竜」
日本で「独眼竜」といえば戦国時代の伊達政宗のことだが、実は本家は中国の五代に活躍した沙陀族の李克用のことだった。李克用(856~908)は李存勗の父で、事実上の後唐の建国者であり、朱全忠の好敵手だった武人であるが、漢人ではなく、沙陀族という北方遊牧騎馬民族の系統を引く人物だった。沙陀族はトルコ系民族である突厥の一部族で、唐に服属していたが、李克用の父で族長だった朱邪赤心は、黄巣の乱の前に起こった反乱を鎮圧するのに功を立て、唐王朝の国姓である李を賜り、李国昌と改名し、山西省の振武節度使となった。李克用はその第三子で若い頃から武名が高く弓の名人として知られていたが、欧陽脩の『新五代史』に「其の一目眇(すがめ)なれば、貴たるに及んでまた独眼竜と号す」と記している。(引用)彼の率いる沙陀族の騎兵部隊は、黒色の軍装を着用していたから、鵶軍(あぐん、カラス部隊)とよばれて精悍をうたわれ、敵軍はその姿を見ると戦わずして逃散したと伝えられる。彼は晩年に朱全忠と対立し、朝敵の汚名を着せられたこともあるが、生涯、唐朝に忠誠をつくし、唐滅亡後も臣節を全うして変わらなかった。彼に対する高い評価は没後ひならずして定着したらしく、これ以後、隻眼ではあるが、勇猛で節義にあつい貴人を独眼竜と称する風がうまれた。息子の李存勗が後梁を滅ぼした時、その国号を慣例の如く晋とはせずに唐としたのは、唐朝復興を標榜した父親の意志を継いだものとする説がある。なお、わが国では仙台の伊達政宗を独眼竜の別称でよぶことがあるが、それは頼山陽が政宗を北方の勇将李克用に託してよんだ漢詩の一句「河北、渾(ことごと)く独眼竜に帰す」に由来する。河北とは白河以北、つまり東北地方をさす。<寺田隆信『物語中国史』1997 中公新書 p.159>