印刷 | 通常画面に戻る |

突厥

モンゴル高原で活動したトルコ系の遊牧民。552年にユーラシアの東西にまたがる突厥帝国(第一帝国)を建設。西ではササン朝、東では隋・唐帝国と同時期であった。583年に東西に分裂し、東突厥は隋の支配を受ける。隋末に再び有力となり、唐の建国を助けたが、太宗の全国統一後はそれに服する。682年、自立してモンゴル高原に第二帝国を築き、独自の突厥文字を作り唐とも交渉があった。しかし744年に同じトルコ系のウイグルに滅ぼされた。

突厥帝国

突厥(第一)帝国の最大領域と中国の諸国家

 「とっけつ」が一般的だが、「とっくつ」とよむのが正しい。テュルクの音を漢字に写したもので、トルコ人のこと。北方民族のひとつとして、モンゴル高原で活動していたトルコ系の遊牧民で、はじめ柔然(モンゴル系)に従属していたが、6世紀中頃にアルタイ山脈西南地方のセレンガ川流域を中心に部族を統合し、優秀な鉄器を生産するようになり、552年に柔然を破って独立した。その王を柔然と同じく可汗(カガン、ハガン)という。
 突厥の活動範囲は広く、西方のパミール高原を越えてソグディアナなど中央アジアにも進出、ササン朝ペルシアと結んで、559年ごろエフタルを滅ぼした。さらに東方では北魏が分裂して混乱している華北に力を伸ばし、隋から唐への王朝交替に大きな影響を及ぼしている。
突厥の時期区分:552年の突厥建国から630年の東突厥の唐への服属までを第一可汗国(または第一帝国)といい、630年から679年の唐への服属時代を経て、682年の東突厥の再建から744年の滅亡までを第二可汗国(または第二帝国)という。
ポイント:突厥は6世紀のユーラシア東西にわたる大遊牧帝国を建設したトルコ系民族として重要。現在の小アジアのトルコ共和国を構成している民族の遠い源流がモンゴル高原にあり、東では隋・唐、西ではエフタル、ササン朝、ビザンツ帝国と関わりを持っていた。この世界史学習のスケールの大きさを味わってほしい。また、突厥は北方アジア民族(トルコ系)として最初の独自の文字として突厥文字をもったことも重要。現代のトルコにおいても、トルコの建国は突厥建国の552年とされており、トルコ民族史の栄光の時代とされている。

「突厥帝国」の意味

 突厥国家(のみならず古代遊牧騎馬民族国家一般)は、一口にいうなら部族連合国家で、そこでは「強力な統一的支配」はほとんどおこなわれなかった。のみならず、突厥国家は、建国後ほぼ30年で東突厥と西突厥とに分裂し、しかも東突厥は約50年間の唐への服属の後に再起したが、60数年で滅亡する。すなわち、突厥国家は空間的な統一性も、時間的な連続性も保っていない。こうした点から突厥国家を「帝国」と称するのは誇張のそしりを免れない。しかし、突厥国家は、モンゴル高原、中央アジアだけでなく、満州(中国東北地区)や南シベリアに居住する多くの異民族を統治下におさめた多民族国家であった。そこで欧米の研究者は、The Turkish Empire と呼んでいるがそれは「多民族国家」という意味においてのことである。<護雅夫『古代遊牧帝国』1976 中公新書 まえがき>

突厥帝国の成立

 はじめアルタイ山脈の南西にあり、トルコ系諸部族を統一した阿史那部の伊利(イリ)可汗(可汗=カガンが王の称号)が、552年柔然から独立しモンゴル高原一帯を支配した。これを突厥第一帝国(可汗国、王朝)とも言う。背景にはその地域が鉄鉱石に恵まれ、鉄製武器の製作にすぐれていたからという。
中国王朝との関係 突厥が自立し、急速に台頭した6世紀の中ごろは、中国では南北朝の動乱期で、華北では北魏が東西に分裂(534年)した後だった。伊利可汗は中国北朝の西魏に使節を派遣して通婚している。さらに華北では東魏・西魏の対立から北斉・北周への争いへと続くなか、漁夫の利を占める形で突厥は勢力を伸ばした。北斉・北周はいずれも突厥に対し、臣従の礼を取るほどであった。
西方でエフタルを滅ぼす  伊利可汗は、弟のディザブロスを西方に派遣すると、ディサブロスはササン朝ペルシアと接触した。当時、ササン朝はエフタルの侵攻に悩んでいたので、ホスロー1世はその背後にある突厥の勢力と結ぶことにし、両者で挟撃してエフタルを滅ぼした(559年ごろ)。
 ディザブロスは西面可汗として中央アジアを支配して、その勢力はカスピ海方面まで及んだ。彼はササン朝に中国の絹の市場を開こうとしたが、拒否されたためビザンツ帝国ユスティニアヌス帝の時代)と結び、中国の絹を直接売り込むのに成功した。突厥帝国の保護を受けて、東西交易にあたったのがソグド人の商人であった。

突厥の分裂

 中国が分裂していた時期に、ユーラシアの中心部で東西に及ぶ大帝国となった突厥帝国であったが、その帝位である大可汗は、地位相続の明確な規定がなかったためか、583年(ご破算!)にディザブロスの子が独立して可汗を称し、西突厥をたて、ここに帝国は東西に分裂した。
 同時にそのころ、中国では北周に代わって581年に華北を統一、その文帝(楊堅)は突厥に対する攻勢に転じ、東西に分裂して弱体化した東突厥を圧倒した。隋の文帝はさらに軍を南方に転じ、589年に南朝のを滅ぼして中国を統一した。

東突厥と唐

 東突厥はモンゴル高原、西突厥はトルキスタンから西を支配することとなった。東突厥は隋の支配を受けていたが、煬帝が612年にはじまる高句麗遠征によって国力を消耗して衰退すると、再び中国は動乱の時期となり、東突厥は勢いを取り戻した。
 618年を建てた高祖(李淵)は、この東突厥とは友好関係を維持し、しかもその兵力の支援を受ける必要があった。そこで、実際、隋との戦いでは唐は突厥の騎兵の援軍によって勝利を得ることが出来た。
 そのため東突厥の頡利(けつり)可汗は唐を属国視し、しばしば物資の上納を要求し、兵を出して長安を脅かした。そこで太宗(李世民)は、全国を統一した余勢を以て、突厥との戦いにいどみ、630年に遠征軍を派遣した。東突厥はそのころ、北方の同じトルコ系の鉄勒(トルコ系民族の総称でもある)の部族である薛延陀(せつえんだ)やウイグルなどの諸部族の反乱などもあって混乱していたので、太宗は鉄勒と共同することで東突厥軍を破り、頡利可汗は捕虜となった。太宗が東突厥を滅ぼしたとき、鉄勒諸部族は太宗に「天可汗」の称号を贈ったが、これは遊牧民の世界皇帝を意味しており、唐の支配権が遊牧世界まで及んだこととなる。唐はこの地域に対して州県を置いて現地の突厥族長を官吏に任じる羈縻州とする羈縻政策で臨んだ。

西突厥

 西突厥はほぼアルタイ山脈から西側、パミール高原に東西の広い地域(後にトルキスタンと言われる地域)を支配した。7世紀初めには唐僧玄奘がインドに向かう途中に、現在のキルギスのイシク湖西方にあったと思われる西突厥の可汗の滞在地を訪れている。東突厥が唐に滅ぼされた後、西突厥の領域も次第に唐に奪われていった。640年、唐はトゥルファン(高昌国)を滅ぼすと、西突厥は直接唐の脅威にさらされることとなった。657年についに西突厥は滅ぼされ、唐の支配はは中央アジアのパミール高原西部(西トルキスタン)に及んだ。

突厥第二帝国の興亡

 7世紀後半になると突厥の動きが再び活発になり、東突厥は唐に対して反乱を起こし、682年に突厥を復興した。8世紀には唐とも友好関係を持つに至った。これを突厥第二帝国(可汗国、王朝)とも言う。この第二帝国の時期に、突厥文字がつくられた。730年代には唐の玄宗が東突厥のビルゲ可汗などの業績を称えて送った文を突厥文字で記したオルホン碑文が残されている。しかし、新たに起こった同じくトルコ系のウイグルに攻められ、744年に滅ぼされた。

その後のトルコ系民族

 こうしてトルコ民族の最初の栄光である突厥帝国は消滅したが、中国北部のモンゴルから中央ユーラシアを次に支配したのが同じトルコ系のウイグルであった。ところが、ウイグル人はキルギスに追われて西方に移動し、パミール高原の東のタリム盆地と、西のソグディアナで定着し農業生活を営むようになる。それが中央アジアのトルコ化の始まりであり、トルコ化した地域をトルキスタンというようになる。そしてこのトルキスタンのウイグル人に重大な変化が起きる。それがトルコ人のイスラーム化である。

出題 2010年 東大 第3問

 問(5) 突厥の歴史は、現在の西アジアのある国につながっている。その国の名前を答えよ。

解答

印 刷
印刷画面へ
書籍案内
古代遊牧帝国 表紙
護雅夫
『古代遊牧帝国』
1976 中公新書