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五代十国の争乱

唐滅亡後の10世紀、中国で続いた争乱。

 907年の唐の滅亡、朱全忠の後梁建国から、979年の宋の中国統一までのほぼ10世紀前半の分裂期を五代十国という。五代とは、華北におよそ10数年ずつ交替した、後梁後唐後晋後漢後周の五王朝のこと、十国とはその他の地域に興亡した、呉越・南唐・前蜀・後蜀・呉・閩(びん)・荊南・楚・南漢・北漢などの十王朝をいう。 → 五代十国

五代十国の社会変動

 この時代は、律令制の崩壊後、唐の貴族階級が没落し、新興地主層が成長するという社会的変動の中で、各地の軍事勢力である節度使(藩鎮)が自立し、抗争した。各王朝では節度使となった武人が武力を持って権力を奪い、また武力を背景に強権的な政治を行うという武断政治が行われた。

トルコ系沙陀族の王朝

 五代の諸王朝のうち、後梁後周の二王朝は漢人が建てた王朝であったが、間の三王朝の後唐後晋後漢は、いずれもトルコ系の沙陀族の出身者が皇帝となったもので、(漢人の王朝から見れば)異民族王朝であった。しかも、そのほとんどは節度使出身の軍人であった。
沙陀族とは 後唐を建国した李存勗(りそんきょく)とその父李克用は沙陀族であった。沙陀族とは西突厥の一派とされる北方遊牧騎馬民族の部族である。突厥と同じくトルコ系民族であるが、実際には幾つかの種族による集合体であった。沙陀(さだ)というのは本拠にしていた天山山脈東部の沙磧(させき)という地名によるという。はじめ、唐に朝貢していたが、東部に移動して9世紀に唐に帰属し、オルドス(黄河湾曲部)から山西省北部に移り、族長に率いられて北辺防備にあたっていた。その族長赤心は唐に対する反乱を鎮圧するのに功績を挙げ、唐王朝の姓である李姓を与えられ、李国昌と名乗って節度使になった。その子が、朱全忠と覇権を競った李克用であり、李克用の子が後唐を建国した李存勗であった。唐という国号も姓が李であるところから称したものだが、唐王朝とは関係なく、沙陀族の王朝であった。続く後晋、後漢もいずれも沙陀の系譜を引く人物が建国したしたので、それぞの統治範囲は黄河流域の一部に限られたが、次の契丹人が建国して一時中国全土を支配した「遼」や、女真が建国した「金」の同じ「征服王朝」の先駆的存在だったと言える。

東アジアの変動

 また、唐を中心とした東アジアの国際秩序もこの時代に崩壊し、中国の周辺でも大きな変動が起こった。10世紀前半の動きを挙げれば次の通りである。
 ・916年 モンゴル草原東部の契丹族を統一した耶律阿保機が帝を称す。
 ・918年 新羅の部将王建が、高麗を建国。
 ・926年 契丹が、渤海を滅ぼす。
 ・935年 高麗が新羅を滅ぼし、朝鮮半島を統一。
 ・936年 契丹(遼)が、中国の後晋から長城以南の燕雲十六州を獲得。
 ・937年 雲南に大理国が成立。
 ・939年~941年 日本で平将門・藤原純友の反乱が相次ぐ。→藤原氏の摂関政治へ。
 ・939年 ベトナムで独立政権成立。 → 1009年に李朝大越国)成立。
 ・946年 契丹後晋を滅ぼし中国全土を支配。
 ・947年 後漢、建国。契丹、国号をとする。

統一の回復

 960年に華北に建国した趙匡胤が華北の後周を滅ぼし、五代は終わる。なおも十国以来の地方政権が存続したが、979年に宋の太宗がそれらを滅ぼして、中国の統一を回復した。
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